とぐち武豊のいかほどか「太いパイプ」で公約の「海兵隊撤退」 -「やれば出来る !!」← さあやってくれ !
さて、
稀代のデマ流し選挙、
辺野古隠しのかおなしといわれようと、
実際のところ、
渡具知氏の公約は、
これだよ、
これ。
とぐち武豊 WEBSITE(とぐちたけとよ) 公式 HP
普天間飛行場代替施設の移設
基地問題に関する基本的な考え方は、日米同盟の重要性は認識しつつも、米軍基地が極端に偏在していることは明らかであり、過重な米軍基地の負担軽減は多くの県民が等しく願うところである。従って、海兵隊の県外・国外への移転を求めます。 辺野古代替移設については、現在、国と県が係争中であり、この行方を注視していく。
まさか、
どんな破廉恥で鉄面皮の卑劣な「ぬらりひょん」でも、
当選一夜明け、すぐに、公約ひるがえし、などと
言い散らかしたりはしないだろう。
こんなふうに。
辺野古「複雑な民意」 次期名護市長、移設是非は重ねて明言せず
2018年2月6日 06:30
-海兵隊の全面撤退を求めていかないのか。
(渡具知)「全面移転ができるのであれば、結構だ。しかし日米特別行動委員会(SACO)合意や米軍再編も含めて、これまでの過程を考えると、どうなのか」
-実際は難しいという考えか。
(渡具知)「そうだ」
おい、
自分が海兵隊撤退を公約に掲げておいて、
「どうなのか」はないだろう怒。
なにせ
渡具知は「やれば出来る!!」
がモットーだ !
そうだ、
市民がとぐち武豊に期待をよせている !
おのれを信じた支援者を裏切るなよ !
だいたい、選挙期間中は
政府との「太いパイプ」を強調しつくした
とぐちの太いパイプとは、
どれほどの太さなのか、
政府との「太いパイプ」で当選したのに
いまさら「政府と一定の距離を置く」などと、
いったいパイプは一夜にしてどこに消えたんだ?
さあ、やってくれ、
その「太いパイプ」とやらで、
自らの公約をしっかり実現するのが
市民から選ばれた市長の定め。
なにせ海兵隊を撤退させれば
そもそも必要ない。
なんという根源的な公約だことか !
海兵隊の県外・国外への移転
さあ、公約実現 だ !
沖縄県民の生活を寸断するだけのパイプラインなら
邪魔なだけ。
もう御免こうむるという話だよ。
この沖縄では有名な話だよ、
県民なら、わかるよね。
⇩
「油線・軍用地協会杭」と「軽便鉄道線路」。
沖縄戦でずたずたにされた軽便鉄道、そのあとに、1952年、アメリカ軍は那覇軍港から北谷桑江ブースステーション(軍施設)まで、米軍基地をつなぐ送油管 (パイプライン) を布設した。実はこれが「パイプラン通り」( 正式名称は油線軍用地 ) の由来である。
戦後を生きた人々はこのパイプラインを道路として使うしかなかったが、もともと道路として作られているわけもなく、アップダウンがかなり激しい相当の悪路で、また道のど真ん中に意味の解らない巨大なボックスが道をふさいでいた (バルブボックスだという) 。雨が降れば泥だらけで乾けば粉塵が舞う。しかし整備することもできない。なにせそれは米軍基地のパイプラインなのだから。
人々は米軍パイプライン、つまり油線軍用地の返還を求めた。米軍は1985年に内間~伊祖間を、1990年に伊祖~牧港間を返還した。
古い mixi に刻まれたこの言葉が胸をうつ。
パイプライン通り 別名「油線軍用地」 - 古きよき沖縄を探そう
一番重要なことはこの道は戦前の軽便鉄道が走ってた線路跡を
撤去して作られたことだ。
終戦直後の沖縄の人間が本当にみたかったのは
基地にはこばれるオイルではなく、
人を運ぶ鉄道の姿だっただろう。
米軍基地のパイプより、必要なのは人々をつなぐ鉄道だ。
今ある沖縄の生活は、生活を寸断する軍用地、パイプラインを返還させるために声をあげ闘ってきた先祖たちの努力なしにはありえない。パイプライン通りを通る時、沖縄戦で失われた軽便鉄道、そして油線軍用地として米軍に接収されたパイプライン、それを返還させた人々の努力を思い出そう。
県民に必要なのは基地とつながるパイプなどではない !