慰霊の日に ~「魂魄の塔」~ 慰霊の土地を米軍基地建設「辺野古埋立て」の「土砂」に使うという日本政府
白い軽石のような、珊瑚のかけらのような、そんな細かな遺骨が散らばっている土地を、米軍基地建築の「土砂」として利用するという政府の発想はどこからくるのだろうか。
県民投票の明確な意思すら踏みつぶし、沖縄戦の犠牲者の魂が眠る地までも掘り起こし土砂にして沖縄の海を埋めるという、そこまで沖縄を踏みつぶす日本という国は、いったいどうなっているのだろうか、
今日は沖縄戦「慰霊の日」
しかし、本土のメディアは、「慰霊の日」は報道すれども、「魂魄の塔」のすぐそばの慰霊の土地が、辺野古の米軍基地建設の「土砂」として採掘され、海に投げ込まれようとしていることをちゃんと報じているのだろうか。
沖縄戦から76年の「慰霊の日」。沖縄戦で犠牲になり、身元が分からないまま放置されていた人の遺骨を集めて建てた慰霊塔「魂魄(こんぱく)の塔」では朝から祈りがささげられています。https://t.co/Ohxj4xkvtv#沖縄慰霊の日 #慰霊の日 #沖縄戦 #nhk_video pic.twitter.com/Bm7EztL9rG
— NHKニュース (@nhk_news) 2021年6月23日
この魂魄の塔とは、敗戦から半年後の1946年1月頃、未だ米軍によって収容下にあった真和志村の住民が米須の地に送られ、その地で道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨をうず高く収集し祀った、収骨の碑である。
(旧真和志村民が、米須地区に) 集結完了と同時に遺骨収集作業をした。未だ米軍の掃討作戦中で、集結地キャンプから外への出入りは厳禁されていた。… 当時、道路脇、畠の中、畦道、溝の中、石垣の側、暗渠内、壊れた家屋の下、岩陰等、周辺いたる所に、遺骨が散乱していた。村長金城和信氏は、その光景を見るに忍びず、早速米軍糸満地区隊長に対し、収骨作業の許可方を申し入れた。なかなか許可が下りず、日参して心情を訴えつづけ、(1946年) 2月23日やっと許可がおりた。... 当時遺体は、まだ戦没日浅く、完全に白骨化しておらず、頭髪はほとんどが元のまま処り、なかには皮膚の残った遺体もあった。.. 金城村長は、納骨所の建立を急いだが、周辺には資材らしいものは石以外に見つからなかったので、資材の提供を米軍二世にお願いし、セメントや古寝台をもらって鉄筋代わりに寝台の鉄骨を使い、周囲から石をかき集めて、納骨所らしいのが出来上がった。之を『魂魄の塔』と命名した。
『還らぬ人とともに』沖縄県遺族連合会援護のあゆみ (1982)、230頁 (保坂廣志『沖縄戦のトラウマ-心に突き刺す棘』(2014年) 134頁)
この収骨作業に加わり、ひめゆりの塔の除幕式に訪れた仲村起徳は、このように記している。
(1946年4月) 7日、ひめゆりの塔の除幕式の朝、私は (金城和信の) テント小屋をぬけ出して、魂魄之塔へ歩いて行った。その裏は、われわれが、喜屋武断崖に追いつめられたとき、はるか遠白く見えた白浜である。阿旦をわけて浜へ出た。青い海がひろがり、白波がよせていた。波打際に歩いて行ってぞっとして立ちすくんだ。無数の遺骨が、波にころころと音をたててころがっているのである。そばの針山のような岩の上にも、無数の骨が打ちあげられていた。そのわきに、朱塗りのはげた板のかけらがころがっていた。がん道具の破片のように見えた。村民が総動員して、遺骨を収集したという魂魄之塔のすぐ裏に、まだこれほど多くの遺骨がころがっているのである。現実とは思えない。まるで地獄にまよいこんでいるような白昼夢をみているようであった。
仲宗根政善「遺骨を背負うた生涯――金城和信氏を悼む」(保坂廣志『沖縄戦のトラウマ-心に突き刺す棘』(2014年) 135頁)
1945年6月21日、米軍は最南端まで達し、米須は最激戦地と化していた。 「一帯は文字どおり死の道で、道路の真ん中といわず、傍といわず、至る所に人間が折り重なって息絶えていた」(大田昌秀著) 。そして、いま、辺野古埋め立て用「土砂」の採掘場に予定しているのは、まさにその場所。赤丸で囲んだ地域である。
現在その一帯は、平和祈念財団が管理する霊域参道となっており、
➀ 「北霊碑」(北海道)
➁ 「大和の塔」(奈良県)
➂ 「紀乃國之塔」(和歌山県)
➃ 「因伯の塔」(鳥取県)
➄ 「島根の塔」(島根県)
➆ 「讃岐の奉公塔」(香川県)
⑧ 「大分の塔」(大分県)
➈ 「東京の塔」(東京都)
➉ 「魂魄の塔」
⑪ 「開南健児之塔」
⑫ 「有川中将以下将兵自決の壕」 (シーガーアブ)
が、その土地周辺をかこむようにある。
特に ⑫ 「有川中将以下将兵自決の壕」 (シーガーアブ) に関しては、確実に地下で熊野鉱山の採掘予定地内に伸びて拡がっていることが既に分かっている。
12月に採掘業者が糸満市に提出した森林伐採届によると、米須の開発区域はシーガーアブの一部を含む0.76ヘクタール。過去にシーガーアブを調査した沖縄平和ネットワークによると、シーガーアブは2つの縦穴(ドリーネ)が約20メートル間隔で並び、それぞれ地下に自然壕がある。二つの縦穴と壕を一連のシーガーアブと呼ぶ。開発区域内に入っているのは北西側の壕で、地元の住民によるとシーガーアブの土地は地権者が過去に別の業者に譲渡した。現在は採掘業者が所有する。
沖縄戦では、日本軍の南部撤退で米須は軍民混在の戦場となり、多くの住民が犠牲になった。「米須字誌」によると、米須出身の男性の証言として、シーガーアブには地元の7家族ほどが避難していた。米軍の再三の呼び掛けに応じなかったため、石油を流し込んで燃やしていたとの記録が残る。 沖縄平和ネットワークなどによる過去の調査では、シーガーアブの北西側にある壕内部には、日本兵の遺骨や遺留品のほか、避難した住民が持ち込んだとみられる水がめなどもあり、軍民が混在していた様子を示す。 津多さんは「沖縄戦を語り継ぐため、住民の証言とガマはセットで残していくべきだ」と話し、戦跡として行政が保存に取り組む必要があると指摘した。
いったいなぜ、このような慰霊の地を削り、辺野古の海に投入して踏み固め、米軍の足元の土とする必要があるのか、
ここに珊瑚のように散らばる遺骨は日本が送りだした若者たちの亡骸ではないのか。どこまで自国の歴史といのちに見ぬふり知らぬふりをするのだろうか。
ある兵士は
「あれは戦争ではなかった。屠殺だった。自分たちはみんな沖縄という屠殺場へ送りこまれた兵隊だった」
『知念村史』(1994年)
と述懐するが、
78年前、沖縄の島に基地を押しつけ、兵士を送りこんで「屠殺場」としたのは日本だった。それを日本は忘れてしまったのか。
そして、今も日本が沖縄に基地を押しつけ、基地建設を強行する限り、
沖縄戦は終わってなどいない。
米須の土地は、土砂でも廃棄物でもない。
日本の戦争で多くの兵士と住民が亡くなった。土地が白く見えるほどだったともいわれる南部の土地を、米軍基地建設の埋め立てとして使うという、その精神の在り方は、戦時中の日本軍体質とほとんど変わりがない。
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