早過ぎる死であり、誰もが驚き悲しんでいる。
責任の所在というものを明確にしない、日本という国は、メディアもまた、まるで砂糖菓子でできたようなユーロジーでお茶を濁す。しかし、それは彼の人生と貢献を正確に表すものではない。
最期ぐらい、その男の人生を、正確な言葉で送りだしてあげるべきではないのか。虚構の言葉はむしろ礼に欠ける。
あたかも彼が無償のボランティアで沖縄のために尽力した、と誤解させるような頌徳の言葉 (eulogy) を書く本土のメディアは偽善的である。
そのようなユーロジーは、岡本行夫の人生を裏切るものであり、また沖縄を裏切るものである。
2020年5月8日 0時10分2020年5月8日 0時10分2020年5月8日 0時10分
元外交官で、橋本、小泉両政権で首相補佐官を務めた、外交評論家の岡本行夫(おかもと・ゆきお)さんが死去した。74歳だった。政府関係者によると、新型コロナウイルスに感染し、4月下旬に亡くなったという。
1945年、神奈川県生まれ。一橋大卒。68年に外務省に入り、北米第一課長などを歴任したが、91年に退官。コンサルタント会社を営みながら、外交評論家として活動した。
96年に米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の返還で米政府と合意した橋本政権で、制度発足後初の首相補佐官となった。沖縄担当として、政府と地元のパイプ役を務めた。「自由な立場で発言したい」と無報酬の非常勤を希望。何度も沖縄入りし、沖縄県の経済振興策の策定や米軍普天間飛行場の返還問題などで奔走した。
2001年には小泉政権の内閣官房参与に就任。外交課題で情報提供や助言を行った。03年に小泉政権のイラク問題を担当する首相補佐官に。イラク戦争後、たびたびイラク入りし、復興支援策などに尽力した。
彼が無報酬で奔走したのは、沖縄のためなどでは、決してない。
アメリカ政府と、対米従属関係の維持と、日米合同委員会のためである。
でなければ、このような虚偽の言葉がでるわけもないからだ。
(ジュゴンは) 沖縄本島全体を周回し、たまに辺野古に立ち寄る
(辺野古案は環境への負荷は少なく) 合理的な選択だった
また、2018年12月30日の年末番組では、1999年の稲嶺惠一知事 (自民推薦) による苦渋の2つの辺野古移設条件、
➊ 基地としての使用期限を15年とすること、
➋ 軍民共用の空港とすること、
それを、実は日本政府はアメリカ側に伝えてなどいないはずだと言いきって、スタジオを騒然とさせた。
そして、日米合同委員会は、
(岡本行夫) 「(日米合同会議が) 何をやってるかと言うと、日本とアメリカで合意したことを、きちっとアメリカが守ってるかと、…」
(関口宏、驚きの声) 「へっ !?」
(岡本行夫) 「あんまり騒音を出すなよと、あんまり大規模な演習はするなよと、(在日米軍基地の) 日本人の従業員の手当はきちっとこのこのぐらいでやれよ、と。(註) 要するにね、アメリカ側にとってみればね、もう小うるさくてしょうがない会議なんですよ。日本側がいつも注文を付けてくるから。」
そもそも、在日米軍基地の)日本人従業員の手当を支払っているのはアメリカ側ではない。日本政府だ。
また、他のテレビ番組で「辺野古は砂地だけ。サンゴ礁も、生物もいない」の発言は、陸地案の時に発言したもの、と言い訳をしていたが、その発言は2010年のものであり、とっくの昔に陸地案など消え去り、既に海上の V字案にすら移行していた時期のことだ。
このように、岡本行夫氏は、つねに相手が知らないことを前提にして、嘘の内容をさももっともらしく語る。
彼は「沖縄のため」に尽力したのではない。
すべては、不平等な日米安保の現状維持と、沖縄にさらなる基地負担を押しつける辺野古基地建設のためである。
そのために彼は尽力し、奔走した。
日米合同委員会の元メンバーであり、もっとも著名な親米ロビイストであり、以上のテレビコメントに見られるように、一貫して日米同盟における国内の好意的世論を形成するため、テレビのコメンテーターを長く務めた。
その彼の「業績」を抜きにして、彼の人生を振り返ることは不可能である。
彼にとって沖縄とは、
実際のところ何だったのだろうか。
もう我々は彼の本心を聞くことはできない。心から残念に思う。
テレビだけではなく、立命館大学でも安保法案世論醸成に尽力しておられたようだ。
日本の多くの大学は省庁とのパイプ作りのために多くの元官僚を天下りとして受け入れるが、学生の学費をこのような政治力のために使うべきではない。
名前の漢字を間違えたのでお詫びして修正。#日曜討論。岡本行夫氏。自分の学生のほとんどが安保法案反対と聞いて驚き、30分丁寧に説明したら賛成に回った、丁寧に説明すれば賛成は増えるという。これはエビデンスにはできないよ。教室における教師と学生の権力関係というものがまるでわかってない。
— Miwa Ota (@MiwaPoet) 2015年9月13日