Osprey Fuan Club

~ 沖縄の歴史から現代の政治まで ~

沖縄返還協定は日本政府の思うまま、最初から不平等な条件で

f:id:ospreyfuanclub:20200515004944p:plain


 

沖縄の「本土復帰」から45年がたった。

「本土復帰」とは何だったのだろう。

 

現在50歳以下の多くの県民や国民は、

その内容や経緯をよく知らない。

 

現在に至る沖縄の米軍基地や日米地位協定に関する不平等な条件は、1971年「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定の締結」により大筋が決められたものだ。

 

屋良主席が「復帰に関する建議書」(沖縄からの要望) を国会に届ける前に、国会は衆議院強制採決。

 

「県民は(中略)基地のない平和な島としての復帰を強く望んでおります」(建議書3ページ)


また、参議院では「沖縄派遣調査」が行われ、派遣団が 米軍基地の「即時・無条件、全面返還」を望む沖縄の声を国会で報告した、にも関わらず、結局、返還協定に反映することは無かった。

 

長い内容になるが、省略割愛しながら、

昭和46年12月22日の参議院 沖縄返還協定特別委員会の記録をみてみよう。

 

youtu.be

  

 

沖縄返還への経緯、届かなかった建議書

 

沖縄が米軍統治下にあった1968年11月、沖縄では行政主席を選ぶ選挙が行われ、日米安保を批判し基地の即時撤去を訴える革新系の屋良朝苗が当選した。

 

Chobyo Yara.JPG

 

その9日後の1968年11月19日、沖縄の嘉手納空軍基地でベトナムに出撃するために離陸した米軍の戦略爆撃機B52爆撃機が離陸直後に失速し墜落爆発炎上、この事故で乗員2名が重傷を負ったほか、爆風で付近の民家139戸が被害を受け5人の負傷者が出た。

 

核兵器を搭載しているといわれたB52は、嘉手納基地から北爆を繰り返していた。

 

繰り返されるアメリカ兵による事件や事故に、沖縄の人々の怒りは一気に頂点へと上り詰めた。嘉手納基地に隣接する小学校のグランドに、3万人が集結して即時撤退を訴えた。また那覇市の与儀公園では、沖縄の祖国復帰協議の大会が頻繁に開かれていた。

 

日米はこれ以上アメリカ軍政下に沖縄をおくことは適当ではないと判断、またベトナム戦争や対中国との軍事バランスを取るため、1969年(昭和44年)の日米首脳会談でニクソン大統領が日米安全保障条約の延長と引き換えに沖縄返還を約束、日米両政府は1971(昭和46)年6月、東京およびワシントンで調印式をおこなった。

  

しかし、日米両政府の沖縄返還交渉は、沖縄住民が希望した「核も基地もない平和な島」をないがしろにした基地存続の方向で進み、日米は沖縄復帰対策要綱をまとめた。

 

沖縄住民は、返還協定が国会で批准されて効力を発する前に協定のやり直しを求めるための、「沖縄返還協定批准に反対し完全復帰を要求する県民大会」を開催した。

 

1971年、琉球政府は、復帰対策県民会議を主席の諮問機関として設置し、日米両政府による沖縄復帰対策要綱について検討を加えた。

 

答申を受けた屋良朝苗(やらちょうびょう)主席はそのつど日本政府に要請し、最終的に「即時・無条件、全面返還」の主旨で「復帰に関する建議書」を作成、臨時国会に提出した。

 

1971年(昭和46年)11月17日、屋良朝苗主席(復帰後初代沖縄県知事)が「復帰に関する建議書」を携えて上京した。「建議書」は、日米両政府が沖縄不在のままで返還交渉を進めていることを危惧した琉球政府が、沖縄が望む復帰のあり方をまとめたものだ。

 

 復帰

 

沖縄県民を代表して屋良主席は132ページにもなる「建議書」でこう訴えている。

 

「戦前の平和の島沖縄は、その地理的へき地性とそれに加うるに沖縄に対する国民的な正しい理解の欠如等が重なり、終始政治的にも経済的にも恵まれない不利不運な下での生活を余儀なくされてきました。その上に戦争による苛酷の犠牲、十数万の尊い人命の損失、貴重なる文化遺産の壊滅、続く26年の苦渋に充ちた試練、思えば長い苦しい茨の道程でありました」

「異民族による軍事優先政策の下で、政治的諸権利がいちじるしく制限され、基本的人権すら侵害されてきたことは枚挙にいとまありません。県民が復帰を願った心情には、結局は国の平和憲法の下で基本的人権の保障を願望していたからに外なりません。経済面から見ても、平和経済の発展は大幅に立ちおくれ、沖縄の県民所得も本土の約六割であります。その他、このように基地あるがゆえに起るさまざまの被害公害や、とり返しのつかない多くの悲劇等を経験している県民は、復帰に当っては、やはり従来通りの基地の島としてではなく、基地のない平和の島としての復帰を強く望んでおります」

「米軍の演習等による流弾事故、米軍人軍属による頻発する交通事故による人身傷害、婦女子が殺傷、暴行されたり、また、原子力潜水艦による放射能汚染、ミサイル発射演習による漁業への影響等々、その数は枚挙にいとまがありません」

沖縄県民は、県民の人権を侵害し、生活を破壊するいわば悪の根源ともいうべき基地に対して強く反対し、その撤去」

「県民が日本国憲法の下において日本国民としての権利を完全に享受することのできるような『無条件且つ全面的返還』」

 

しかし屋良朝苗主席建議書提出に東京に向かったのその日、1971(昭和46)年11月17日、屋良主席が国会に到着する前に、沖縄返還協定を審議中の衆院特別委員会で自民党が質疑を打ち切り強行採決した。

 

その後、「沖縄の望まない条件での返還内容」での強制採決を不服とした国会抗議行動が全国各地で展開された。

 

だが、同協定は議長職権で11月24日開会された衆院本会議で可決、参議院での審議に移り、

 

沖縄と日本各地で抗議活動がわきおこったが国はその抗議を抑える為に、

 

琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定の締結について承認を求める本件の審査に資するための全国(沖縄含む)に委員派遣と意見聴取(公聴会)」を行ない、

 

沖繩返還協定特別委員会が、昭和46年12月22日 に参議院で報告、締結の裏打ちとし参議院承認し可決された。

 

まだアメリカ政権下で沖縄人国会議員の誰1人のいない日本の国会で、沖縄不在のままの返還交渉を進め条件を決め、沖縄が望む「即時・無条件、全面返還」のない、沖縄にとって不平等不条理な「沖縄返還協定」は作られたのだ。

 

 

参議院沖縄返還協定特別委員会」

http://kokkai.ndl.go.jp/…/san…/067/1646/06712221646008c.html

067回国会 沖縄返還協定特別委員会 第8号
昭和四十六年十二月二十二日(水曜日)午前十時二十五分開会
 
○ 派遣委員及び沖繩派遣議員団の報告
琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定の締結について承認を求めるの件

 

〜〜〜中略〜〜〜〜

西村関一君 

私は、昨日、本委員会から派遣せられまして沖繩の現地に行ってまいりました。

もちろん公聴会に類する集会におきましては、賛否両論、公述人の陳述があったわけでございます。その公聴会に類する集会におきましても感じたことでございますが、また、この機会に、私は、早朝から数名の沖繩の各界の方々と個人的に面談をいたしました。それらを通じまして私の感じましたのは、本協定に賛成しておる方々のうちにおいても――もちろん反対している人は言うまでもございませんが――何か、沖繩が返ってくる、本土に復帰するということに対して、賛成している人にはその喜びがあるけれども、反対している沖繩の人たちの中にも賛成している方々の中にも、一種のむなしさ、やるせなさ、そういうものがうごめいておるということを感ぜざるを得なかったのでございます。そういうことばをしばしば私は聞きました。むなしさ、やるせなさということはを沖繩の人たちは言っておられました。

私は、本協定案件の審議にあたりまして、その沖繩の心を忘れてはならない、沖繩の人たちの中にあるそういう率直な気持ちを総理はじめ閣僚の皆さま方もよくとらまえていただきたいということを思うものでございます。沖繩が返ってくる、本土に復帰すると申しましても、米軍の基地はほとんどそのままである。その上に、六千名以上の自衛隊が沖繩に来るということに対して、沖繩の人たちは、何としても割り切れない気持ちを持っている。自衛隊が配備されるということは当然だと考えている人たちの中におきましてさえも、あの苛烈な沖繩戦争を経験してきた人たち、両親を失い、きょうだいを失い、すべてのものを無に帰してしまった人たち、あの苛烈な戦争の中から生き残ってきた人たちのことばを聞いておりますと、もちろん米軍の犠牲者になったということのほかに、沖繩において戦いました日本軍の将兵に対しても、なおぬぐい消すことのできない深刻な思いがあるということ。そこから、本委員会における論議の中におきましても言われておりましたように、自衛隊に対するまっとうな考え方を持つことができないということを、私はきのうもじかに強く感じたのでございます。

そこで私がまず冒頭にお伺いいたしたいと思いますことは、政府は、本協定を結ばれるにあたりまして、どのような基本的な姿勢をもって対米交渉に当たられましたかという点でございます。主権平等の大原則に基づいた交渉をなさいましたかどうか。アメリカの友誼に信頼をして、アメリカ・ベースの交渉に終始したのではないかというような感じがするのでございまして、もしそうだといたしますならば、その結果がこの協定案文のような姿になったのではないかというふうに私は考えるのでございます。そのために、沖繩の人たちは、本協定に、満足どころか、失望と憤りさえも感じておる。本協定案件に賛成をしている人たちの中におきましても、十分な満足を持っていないということを感ぜずにはおられなかったのであります。

政府が確固たる原則に立って、不動の方針を持って交渉に当たっていただいたならばこういう結果にはならなかったと私は思うんでございます。その点について、総理の御見解をまず承っておきたいと思います。

〜〜 中略 〜〜

 

西村関一君 

何といたしましても、基地の問題につきましては、いろいろ重要な問題がございます。沖繩の人たちは、一日も早く基地をなくしてもらいたい、基地を撤去してもらいたい、基地のない沖繩県をつくりたいということが、これは賛成、反対の人を含めて、そういう願望が強いと思うのでございます。

これらの問題について、これをのまなければ沖繩が返ってこないというジレンマがありますことはわかりますけれども、しかし、何としても、こういう返り方では困るという思いがおしなべて沖繩の人たちの中にあるということは間違いのない事実だと思うのでございます。

どのようにして基地のない沖繩、しかも、新しい構想のもとに沖繩を復興させるか、再発足させるかということにつきまして、全然、いま直ちに米軍基地をなくしろとかいうことは、これは言うべくしてなかなか実現できない問題だと思いますけれども、これは基地のない沖繩をつくるということを目ざしながら、一つの沖繩に対するビジョンを持って返還後の沖繩の問題を処理しなければならぬと思うのでございます。

もちろん、私どもは、この返還協定そのものに対しては賛成することができません。しかし、何としても沖繩の人たちの福祉を考える上において、これだけの犠牲をしいられてきました沖繩の人たちの福祉を考える上において、政府は新しい沖繩に対するビジョンを持って処理していかなければならないと思うのでございますが、こういう点につきましては、すでに総理府からも意見が出ておりますけれども、この際、基本的なお考え方について総務長官から伺っておきたいと思うんです。

 

国務大臣山中貞則君) 

単に基地面積の問題ばかりで、これをなくすることが全部の解決であると、これは別な議論でありますが、経済的に見て、そればかりとも言えません。

実は沖繩の経済の質が第三次産業に依存する率が七〇%をこえたウエートであるということを考えますと、土地を取り上げられ、その周辺に住むことを余儀なくされた人たちの追い詰められた生活の知恵というものが、それならば、その基地から自分たちは収入を得ようということによって――三次産業の形態によって相当な経済成長率への貢献もしておられます。

したがって、これらの人たちに対する土地が返ってきたときの計画はどうなるかということは、先ほど琉球政府等の非常な苦労された作業の結果があるということを申し上げましたが、これらの人々をさらに円滑に、できれば、なれた仕事でありますから、三次産業のワクの中で展開して、新しい職種が得られるような方法も考えたいと思いまして、金融公庫法等においては、これを転業資金等の対象に広くホテルやあるいは酒場その他の経営者に至るまで、あるいは従業員が自立する場合においても、その手当てをしようという考え方もいたしておりますし、また、不幸にして一ぺん退職する、失業するという状態の人については労働省とよく相談の上、沖繩失業者手帳を交付いたしまして、そうして、あらゆる再就職のための手当なり指導なり、あるいは雇用者に対する手当の支給なりというようなものを考えておるわけでございますが、これをいかに円滑に、そして、スムーズに沖繩現地の実態に即して無理のない状態で移行させていくかということは、やはり今後の沖繩の新しい経済を形づくる上においても十分念頭に置いてまいらなければならないことであると考えます。

 

森元治郎君 関連。

防衛庁長官に聞きますが、資料によると、返還時のアメリカ軍の数は現在四万四千五百人だけれども、返還時ではどれくらい減るかわからないという資料の説明ですね。

アメリカは、日本軍があそこに局地防衛にかわってくれるおかげで年間三千五百万ドルぐらいは助かるのだというのですから、当然自衛隊がとりあえず六ヵ月以内に三千二百か、二年かで六千八百ぐらい行った場合ですよ、これに見合う陸・海、空のアメリカの兵隊、基地などは当然撤去されるでしょうか。

向こうが早く久保・カーチス協定を結んだのは、すぐ来てくれよというつもりなんでしょう。約束をさせられたんだから。したがって、来る予定が立てばこれは引くというのは、当然三千五百万ドルの経費の説明から見ればかかるのだから、返還時のアメリカ軍の基地、人の減少、こういう予想がされると思うのですが、どうですか。

 

国務大臣江崎真澄君) 

御質問の点でありまするが、御承知のように、基地については返還時にわがほうに返ってくるものも観念的には確かに少のうございまするが、確かにあるわけです。そうして、また自衛隊がその基地のあと地を利用するという地点もあるわけでありまするから、確かに基地も減り、また、その配備等についても漸減していくものと、こういうふうに確信をいたしております。それから、わがほうに施政権が及びましてから、これは総理も外務大臣もしばしばここでお答えいたしておりまするように、なおねばり強く基地の縮小について米側に要請していく、これは国会決議もありまするし、当然尊重しながら努力をしてまいりたいと思います。御指摘の、米軍がいままで沖繩に施政権を及ぼして局地防衛をしておりました分は、われわれ自衛隊がその責めに任ずるわけでありまするから、その分については、確かにアメリカ側は軽減していいと、そういう理論は成り立つものと思っております。

 

森元治郎君 

少し弱いと思うのです。漸減する、そういう議論は成り立つのじゃないか。おまえ早く出てこい、おれが金かかってしかたがないから、おまえも近ごろふところよくなったから出てこいというので引っぱり出されたのでしょう。当然、引けば基地は余るし、人は引き揚げるのはあたりまえじゃないですか。

 

国務大臣江崎真澄君) 

引っぱり出されたというふうには、私どもは理解をいたしておりません。これは施政権が戻ってまいれば、当然独立国として局地防衛に任ずるという自主的な立場で自衛隊配備を行なうわけでありまして、アメリカ側が節減のために引っぱり出したというようなものでは絶対ありませんので、これは御理解を願いたいと思います。

 

西村関一君 

防衛庁長官にお伺いいたしますが、自衛隊が、六千数百名という戦前の沖繩戦、最激戦時における日本陸・海・空軍と比べましても、その内容は違いますけれども、非常に膨大な自衛隊が沖繩に行くと、それは米軍基地の縮小ということとからみ合わせながらそういうことが考えられておると思うのでございますが、どうして、あの小さな県にそれだけの自衛隊が必要であるかということが、これまた沖繩の人の率直な考え方のようであります。この際、明瞭にその問題についてお伺いしておきたいと思います。

 

国務大臣江崎真澄君) 

御指摘の、とりあえず六カ月以内に三千二百、二年程度のうちに六千八百、この中にシビリアンが九百人程度おるわけでありまするが、これはやはりわれわれといたしましては、沖繩県の局地防衛、それから民生協力、こういった面に見合って数字をきめたわけでありまして、あの僻遠の離れた県であるというような地理的位置も配慮したわけであります。これは、まあ、例が例にならないかもしれませんが、北海道は札幌を含めまして大体人口が五百余万というふうにいわれておりまするが、あの北海道は五万数千名の自衛隊員が配置されておるわけであります。これも、北海道というあの特殊性を考慮したりしてそういう人員配置になっておりまするので、そういう例は例にならぬかもしれませんが、やはり沖繩のこの地理的位置ということをいろいろ勘案いたしましての配備でありまして、百万県民にとって、北海道の例等を申し上げれば、必ずしも多くはない。御了承を願いたいと思います。

 

〜〜〜中略〜〜〜 各党が答弁して、反対討論

柴田利右エ門君 

私は、民社党を代表して、ただいま議題となっている琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定の締結について承認を求めるの件に対し、反対の討論をいたします。

 第一の理由は、この協定では、核ぬき・本土並みとはとうていいいがたいということであります。

 核抜きについては、衆議院で決議が採択されるという前向きの成果がありましたが、しかし、今日まで政府はたびたび、返還時までには核の存在しないことを何らかの形で明確にすると断言されているが、米政府からの公式声明は、いまだ実現をされていないように、依然としてあいまいであります。基地についても、基地の中の沖繩、金網におおわれた沖繩という現状はほとんど変わらず、現存基地の七五%がそのまま存続し、しかも、今後の返還スケジュールがばく然としていて具体的に示されていないというありさまであります。また、VOA放送についても、電波法に違反した措置を認め、これを存置させるというように、本土並みという原則は完全に形骸化していることは明らかであります。また特殊部隊の取り扱いについても、そのほとんどの部隊についてその存続を認めようとし、それらの行動についてこれを安保のワク内にとどめるとしております。また、対米請求権についても、これを一方的に放棄したことは明らかな譲歩であり、これでは沖繩県民を納得させることはとうてい困難であります。さらに米国資産の引き継ぎについて、その歴史的経過からして、本来わが国が買い取る性質でないものまでも、これを買い取ろうとしていることは納得できません。その他裁判の効力引き継ぎについても、はたして復帰後再審の道が講じられるかいなか必ずしも明確ではありません。私は以上の諸点から、わが党が当初より主張してきた核抜き・本土並みとは言いがたいと考えるものであります。

 第二の理由は、今回の協定調印後、たとえばニクソン米大統領の訪中決定等の国際情勢の大きな変化があったにもかかわらず、これらの情勢変化が無視されている点であります。特にニクソン大統領訪中決定という新たな事態の発生により、沖繩返還協定の基礎となっている佐藤・ニクソン共同声明、その骨格をなす米極東戦略、なかんずく中国封じ込め戦略の根本的な転換を必至とする情勢にあるにもかかわらず、従来の戦略遂行のための基地施設をそのまま存置することは、極東の緊張緩和にわが国が逆行する結果になるのであり、わが国として容認すべきではありません。しかも、これに加えて、政府が六千八百人にものぼる自衛隊を沖繩に派遣せんとしていることは、いずれ第四次防検討の中で審議されることであり、返還と同時にこれを実施することは、全く国際情勢を無視したものと言わざるを得ません。

 反対理由の第三は、今回の沖繩返還にあたっての政府の政治姿勢についてであります。

 政府は、今回の沖繩返還についてそれが世紀の偉業と自画自賛し、この立場から沖繩県民に対していわば恩恵的な姿勢をとっております。しかも、その一方で米国に対しては、先ほど述べたVOAの存続や請求権の放棄などに見られるように、一方的と言っても過言でないほどの譲歩を行なっております。こうした政府の姿勢では沖繩県民の歴史的な根強い本土不信は拍車がかかりこそすれ、決して解消するものではありません。これでは、たとえ形の上での一体化はできても、沖繩県民と本土国民をつなぐ心の一体化は不可能と言わざるを得ません。

 私は以上の理由から、本件に対し強く反対いたします。(拍手)

 

○星野力君 

私は、日本共産党を代表して、日米沖繩協定の承認案件に反対討論を行ないます。

 最初に指摘しておかなくてはならないのは、二十六年間の長きにわたってアメリカの軍事的、植民地的占領下に置かれてきた沖繩県を一刻も早く日本に返還させるのはきわめて当然のことであり、またすべての国民の望むところであります。このため、わが党も一貫して、核も基地もない沖繩の即時、無条件、全面返還のために努力してまいりました。

 ところが、この沖繩協定は、百万沖繩県民をはじめ国民の要求を踏みにじって、核戦力部隊、各種特殊部隊を含む沖繩米軍基地をそっくりそのまま残し、米軍占領下で筆舌に尽くしがたい犠牲や損失を受けた県民の賠償請求権を放棄するなど、きわめて攻撃的、侵略的、屈辱的な内容のものであります。このため、沖繩県民の大多数をはじめ国民の多くはこの協定に反対しているのであります。それにもかかわらず、政府・自民党は、衆議院でわずか二十三時間余の審議をしただけで、案件の自然成立を前提条件に不法な暴力的な強行採決を行ない、さらに参議院でも十分な審議を尽くそうとしないことに強く抗議するものであります。

 反対の理由の第一は、この協定が日米安保条約の変質を目ざした一九六九年十一月の日米共同声明を条約化するものであり、アメリカのアジアにおける反共軍事同盟に日本を一そう深く組み入れ、対米従属下の日本軍国主義復活強化を新たな段階に推し進める侵略的な日米取りきめだからであります。

 この協定の基礎となっている日米共同声明は、その第四項で、韓国、台湾の安全を日本の安全と同一視し、ベトナム――インドシナでのアメリカの侵略戦争への協力を強化し、第七項で、極東諸国防衛のため米国が負っている国際義務の効果的遂行を妨げないことを約束し、極東のかなめ石である沖繩米軍基地の軍事的価値を施政権返還後も保持しようとしているのであります。第六項で沖繩防衛の責任を日本が引き受けることを約束し、自衛隊を配備しようとしているのは、まさにこのようなかなめ石としての沖繩の米軍基地を防衛するためにほかなりません。

 日米共同声明とそれを基礎とする日米沖繩協定、久保・カーチス取りきめなど関連諸取りきめは、現在アメリカが沖繩を基地として行なっているベトナムインドシナ侵略戦争を返還後も公然と続けることを容認するものであり、さらに朝鮮、中国に対する軍事行動の必要が生じた場合、日本自衛隊との密接な連携作戦のもとに、沖繩をはじめ日本全土からの出撃を可能にするというきわめて危険な内容を持つものであります。

 協定第三条でアメリカに提供する施設・区域には、緊急出撃を任務とする米第三海兵隊をはじめ、他国の領内に潜入して破壊活動を行なうことを任務とするゲリラ戦専門部隊グリーンベレー、謀略的な心理戦争専門の第七心理作戦部隊、CIA部隊SR71など、従来安保のワク外とされていた侵略部隊がそのまま存続することになっていますが、これら特殊部隊を安保条約下に組み入れることによって安保条約の侵略的、攻撃的本質を一そうむき出しにするものであります。

 政府は、事前協議が適用になるから心配ないと説明してきましたが、わが党の追及で明らかになったように、現在沖繩から行なわれているベトナム侵略のためのB52空中給油、海兵隊ベトナム出動、SR71スパイ機の連日の発進など、米軍の軍事行動のどれ一つとして政府はこれを事前協議の対象にしようとは考えず、事前協議制度は全く空洞化するのであります。

 沖繩の核基地についても、政府は非核三原則の順守を口にしますが、わが党が委員会で米軍自身の資料をもとにして繰り返し具体的に暴露してきた核攻撃訓練や、核攻撃準備、核攻撃部隊の居すわりの事実を真剣に調査しようとしておりません。常時核攻撃訓練を行ない、原子砲など核装備を行なっている米軍の存続を認めることは、有事核持ち込みの道を用意している証拠であります。

 日米沖繩協定の危険な本質はそれだけではありません。わが党の追及の中で明らかなように、政府は事実上米第五空軍の指揮下で日米共同防衛を効果的に行なうことを取りきめた松前・バーンズ協定の沖繩適用によって、憲法はもちろん、自衛隊法をさえ逸脱して、本来米軍を防衛する任務を持ち得ない自衛隊に沖繩米軍基地防衛の任務を引き受けさせ、半径一千キロ以上の南と西の太平洋地域を公海公空防衛という名のもとに防衛区域を拡大し、日米混合軍事体制をつくり上げようとしております。

 この協定批准と前後して実行に移されようとしている第四次防衛力整備計画は、まさにこの点を中心に置いたきわめて侵略的な計画であり、断じて許すことのできないものであります。

 このように沖繩協定とそれをめぐる日米取りきめは、日本の安全にとってきわめて危険なものであり、われわれの絶対容認できないものであります。

 第二に、私が深い憤りをもって指摘しなければならないのは、この協定の屈辱的な内容であります。

 沖繩県民は、四分の一世紀にも及ぶアメリカの軍事占領のもとでの米軍の残虐な仕打ちによって、筆舌に尽くしがたい苦しみを受け、生命、財産に大きな損害をこうむってきました。こうした損害を完全に賠償させることは、被害者である沖繩県民の当然の権利であり、国際法上の原則でもあります。ところが、政府は、協定第四条で、日本側の賠償請求権を全面的に放棄しています。これは、県民の被害の賠償、侵された人権の回復という政府の責任の放棄であり、アメリカの不法な占領支配を正当化するものであります。その一方、この協定は、当然沖繩県民に無償で引き継がれ、何ら金を支払うべき根拠のない電力、水道、開発金融公社その他の資産などに対して、三億二千万ドルの国民の血税を支払い、施政権を買い取るという全く屈辱的なものであります。

 また協定第五条では、米占領下の不当な刑事裁判を有効として引き継ぎ、復帰後の裁判に占領中の米軍の布令、布告も適用できるとしております。これは日本国憲法下の法体系と根本的に矛盾し、独立国としては世界に類例のない、主権の放棄にひとしい反民族的な内容であり、断じて許さるべきものではありません。

 さらにわが国の電波法にまっこうから違反した反共謀略放送VOA、極東放送の存続問題、沖繩における米国企業の特権の擁護など、この協定は、アメリカの占領下の権益、権限を最大限に保護し、不法な占領支配を正当化している反面、耐えがたい苦しみを受けてきた沖繩県民の権利や利益を何ら守ろうとせず、今後長期にわたって米軍の半占領下につなぎとめ、県民の生活を苦しめる反民族的な屈辱的な内容であることを示しております。国の進路と国民の運命に重大なかかわりを持つこの協定を、政府自民党は、衆議院では自然成立を前提にわずか二十時間余の審議だけで強行採決を行なった。私は、ここに、この協定の隠された危険性がにじみ出ていると同時に、アメリカに従属し、国の進路を一そう危険な方向に導こうとする政府・自民党のねらいが秘められていることを指摘し、きびしく糾弾するものであります。

 いま、アメリカのベトナム侵略戦争を中心とする戦争と侵略の政策は大きく破綻し、いわゆるドル危機も一そう深刻化する中で、アメリカは苦塩から脱出するため、ニクソン・ドクトリンへの協力、加担を日本に押しつけてきております。

 戦後二十六年間、一貫してアメリカに従属してきた政府・自民党の政治、外交路線がいま大きな矛盾と困難に直面する中で、ニクソン・ドクトリンの具体化である沖繩協定が日本を一そう危険な方向に導くものであることを指摘して、私の反対討論を終わります。(拍手)

 

○委員長(安井謙君) 

以上で本件に対する討論は終局いたしました。

これより採決に入ります。

琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定の締結について承認を求めるの件を問題に供します。
本件を承認することに賛成の方の起立を願います。

〔賛成者起立〕

  

○委員長(安井謙君) 

多数と認めます。よって、本件は多数をもって承認すべきものと決定いたしました。(拍手)

なお、本件について本院規則第七十二条により議長に提出すべき報告書の作成につきましては、これを委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。

  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

 

○委員長(安井謙君) 

御異議ないものと認め、さよう決定いたします。
本日はこれにて散会いたします。


   午後八時五十二分散会

 

 

強行採決の様子

 

沖縄復帰記念式典

 

そして、1972(昭和47)年1月、佐藤栄作総理大臣はアメリカでニクソン大統領と会談をおこない、沖縄返還の期日を同年5月15日と決定した。

1972(昭和47)年5月15日 沖縄は本土復帰し、27年間におよぶ米国の統治に終止符がうたれた。

沖縄は日本に返還されたが、沖縄住民の希望するものにはほど遠い条件だったのだ。

米軍基地の多くは沖縄に残され、日米地位協定によりアメリカ軍優位な条件での返還となった。

 

日本政府は、東京と沖縄で沖縄復帰記念式典をおこなった。

東京での式典は日本武道館でおこなわれ、佐藤栄作総理大臣やアグニュー米国副大統領が出席し、ランパート高等弁務官らをはじめ約1万人の参列で新生沖縄県の誕生を祝った。

 

 昭和47 沖縄復帰記念式典 に対する画像結果

 

いっぽう、沖縄県でおこなわれた式典では、苦渋に満ちた屋良知事のあいさつがあった。 それは、米軍基地をはじめさまざまな問題が持ちこされたままの復帰でしかなかったからだ。

 

復帰運動を推進してきた沖縄県祖国復帰協議会は、沖縄返還のその日、那覇市の与儀公園(復帰記念式典の行われている那覇市民会館のすぐ側)で5・15県民総決起大会を開催し、復帰に反対する決議を採択した。

 

 画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、大勢の人、屋外

 

いっぽう、復帰推進を掲げていた沖縄経営者協会らが組織する復帰祝賀県民大会実行委員会は、5月14日の夕方、那覇市内で県民大会を開催して復帰祝いをした。

 

 画像に含まれている可能性があるもの:1人、大勢の人

 

 

沖縄返還協定資料

沖縄返還協定

琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定)

Agreement between Japan and the United States of America Concerning theRyukyu Islands and the Daito Islands (1971/06/17)

http://machidaheiwa.fc2web.com/tokushyuu/2law/okinawa.html

 

 

www.archives.go.jp