【核と沖縄米軍基地】Part 1: 宜野座のキャンプ・ハーディーは極秘の核兵器特殊部隊グリーン・ライト部隊の拠点だった
かつて、
宜野座の静かな海辺にあった
米軍基地キャンプ・ハーディー。
一般的には、1960年代米陸軍特殊部隊グリーンベレーの訓練地だったと言われているが、
昭和27年に強制接収。陸軍アジア地域援助第一特殊部隊(グリーンベレー)の多目的訓練場として、原子砲の実射訓練、各種の火器類の実弾演習等に使用される。現在、国際交流村敷地として利用されている。
いったいそこで実際には何が行われていたのか。昨年五月に出版された本をもとに、この秘密に覆われた米軍基地を再検証してみたい。
キャンプ・ハーディーとは
さて、今ではあまり知られていない、キャンプ・ハーディー。場所は宜野座松原の国際交流センター、海岸に面した静かな場所である。
その基地の形成年代を見れば、キャンプ・ハーディーの特殊な意味がわかってくる。
1952年、土地の強制接収。(1)
1975年3月31日、土地の全面返還。(2)
沖縄公文書館にはキャンプ・ハーディーの写真が確認できたところ3枚ある。なんと1965年フルカラーの記録写真である。
【原文】 Special Forces-Okinawa. Hardy Camp.
【和訳】 特殊部隊−沖縄。キャンプ・ハーディー 撮影地: 宜野座村撮影日: 1967年 6月
Special Forces-Okinawa. Hardy Camp. 特殊部隊−沖縄。キャンプ・ハーディー 撮影地: 宜野座村 撮影日: 1967年 6月
なぜ、1952年にこの海に面したのどかな海岸を接収する必要があったのか。
そこには、冷戦時代のアメリカ核戦略をになう、ある極秘作戦の存在が背後にあった。
昨年2019年5月、ピューリッツア賞最終候補のジャーナリスト、アニー・ジェイコブセンが『奇襲し殺し消える ~ CIA のパラミリタリー陸軍と工作員と暗殺員』を出版、アメリカでは大きな話題となった。
そこに実はキャンプ・ハーディーがでてくる。
Annie Jacobsen, Surprise, Kill, Vanish: The Secret History of CIA Paramilitary Armies, Operators, and Assassins, Little, Brown and Company; 2019/5/14 ISBN 978-0316441438
※ パラミリタリーとは、純粋な軍隊ではなく、CIA などの諜報機関と合体した組織を意味する。
W54 (特殊核爆破資材) の極秘訓練拠点
少し要約してみよう。
話は、2016年の元米陸軍特殊部隊グリーン・ライト部隊ウォー氏の聞き取りから始まる。
時間の都合で荒い訳ですが、そこはまあご勘弁を。
それは1960年の秋のことだった。
沖縄の東北海岸沿岸にいる米海軍潜水艦グレーバックから3人がゴムボートで海に漕ぎだす。極秘の秘密作戦の演習のためだ。水面下から敵地に潜入する技術は、アメリカ特殊部隊の小さなエリートグループ工作員、グリーンライトチームと呼ばれるものの作戦だった。
その作戦の訓練は実際の核兵器を標的とされる敵地に水面下から運び込み、装置を組み立て、検知されることなく脱出する。潜水艦グレーバックの紋章がうたう題銘は「de profundis futurus」未来の深淵から、というものであったが、まさにこの言葉は危機的な冷戦の時代を暗示するかのようだ。もしも、今アイゼンハワー政権の最後の年に合衆国が戦争にのりだすのならば、それはほぼ確実に核戦争を意味したからである。
俺たちが運んでいるのは核兵器だったんだよ、とウォー氏は回想する。模型ではなく本物のね。陸軍は僕たちに実際の核兵器を持たせて訓練させたんだ。我々は即戦力でなければならなかったし、そして僕たちは実際そうだった。その核兵器戦略ライト・グリーン・チームが行っていたのは、W54 特殊核爆破資材 あるいは特殊 SADM (Special Atomic Demolition Munition) と呼ばれるものだった。
それは98ポンドの重さで、核出力は1から7キロトンに可動できるこの武器は、人間の背中や胸につけて運ばれるよう設計されており、あるいは分解しまた戦場で組み立てられ得るものだった。ニューメキシコ州サンディア研究所によって製造されたこの持ち運び可能な核兵器は完全に直径1マイルほどの地域を破壊できる能力があった。
超小型核爆弾ということか。
【左側の写真】W54は、アメリカ合衆国が開発した核弾頭。超小型の核弾頭であり、重量は50ポンド(約23kg)ほどである。開発はロスアラモス国立研究所で行われ、1961年-1962年にかけて400発が生産された。
【右側の写真】特殊核爆破資材(Special Atomic Demolition Munition,SADM)とは、アメリカ合衆国が開発した超小型の核兵器である。その大きさより"スーツケース型核爆弾"や"超小型核爆弾"とも称される。
いったん岸辺につくと、グリーン・ライト・チームはゴムボートから空気を抜き、それを埋め、砂と葉っぱで足跡を覆う。「僕たちは標的エリアに歩いていった。いったんそこに到着すると、兵器を組み立て、四時間にタイマーを設定し、そして弾頭を仕込む。二人がかりだよ。安全対策だよね。」どのチームも一人で核弾頭を仕込むことはない。「それから脱出のお時間さ。立ち去るんだ。居場所を中継する無線を使ってね。」
デイビー・クロケットと W54 核弾頭の組み立て完成図がこちら。
訓練が終わり、チームはヘリに運ばれ基地に帰る。「キャンプ・ハーディーにね」とウォー氏はいう。「デブリーフィング (特殊任務の結果報告) するんだ。」
キャンプ・ハーディーは沖縄の北東、東村と荒川村のあいだにある米軍施設。ここで、1960年からそのトップシークレットのグリーン・ライト・チーム核兵器訓練が行われていたというのは、国務省はけっして公式に認めてこなかったものだ。
日本が降伏してから、実質的に沖縄は合衆国の保護領となり、もはや日本の領土ではなくなった。米軍は陸空海軍のための基地を建設し、そして1950年朝鮮戦争の勃発とともに、沖縄は米国の軍隊と諜報作戦のアジアでの戦略的拠点となった。その場所から陸軍と海軍は通常的な軍事作戦をおこなうだけではなく、例えばグリーン・ライト・チームや他の特殊部隊がかかわるような不正規戦争 (unconventional warfare) のための基地が極めて重大となった。
不正規戦争のための基地
それがキャンプ・ハーディーだったわけだ。
小型核兵器を水面下から敵陣に持ち込む訓練のために、1952年に海岸の土地を強制接収した。
その四年前、
1948年に、米海軍の司令部だったはずの知念補給地区も、米陸軍に管轄が移され、見た目はふつうの基地や住宅地の風情だが、それは表向きで、
他の基地の軍人はおろか、琉球列島米国民政府 (USCAR) の最高責任者である高等弁務官ですら許可なく入ることも許されぬ、アジア最大の CIA 拠点となっていた。
つまり、キャンプ知念とキャンプ・ハーディーは CIA でできあがり、CIA でつながっていたということだ。
1972年の本土復帰を前に、いわゆるペンタゴン・ペーパーズと呼ばれる一連のニューヨークタイムズによるスクープには、キャンプ知念と核の機密も含まれていた。CIA はまもなく沖縄から撤退、キャンプ知念もキャンプ・ハーディーも返還された。
この、核兵器を背負って時限爆弾のように仕掛けて逃げ去るポータブル核兵器戦略は、最重要機密として扱われ箝口令が敷かれた。そして、1986年のチェルノブイリとソ連の崩壊とともに、1989年、特殊核兵器およびグリーンライトチームも終焉する。
人類にとって幸いなことには、冷戦の終わりまで、沖縄で訓練された特殊核兵器任務は実際には一つも行われることなく、いまでは、「核のカミカゼ版」「自爆作戦」として批判されてもいる。( Green Light Teams - Wikipedia )
しかし、時代任せで悪魔の兵器が消えるわけではない。
そういうことをしっかり認識すべきである。
ほんのちょっとの権力者の決定で、沖縄が、日本が、核の拠点になりうるのだということを。
軍事ビジネスにシフトしたトランプが、超小型核を潜水艦発射弾道ミサイルに導入することをもくろんでいる。
実際には、沖縄と日本の海には核の潜水艦/空母がうようよ泳ぎ回っているわけだが、
おおっぴらに核兵器配備となると、九条を捨て、悦び国民の安全を米軍に提供するのが、何を隠そう、この安倍政権であることも、
我々は知っておくべきである。
つまり、核の恐怖は、
まったく終わってなどいないということだ。
二回目もキャンプ・ハーディーの衝撃事件を扱います。小型ではない、もっと大きな原子砲です。⤵
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■