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教育勅語と御真影 ― 戦火の「御真影奉納隊」

2017年4月4日

なんてことだ !
平成の時代に「教育勅語

教育勅語、教材で用いること否定せず 政府が答弁書:朝日新聞デジタル

 

教育勅語を知らない世代の私たちは、「親兄弟友達を大事にしよう、良いんじゃない?何が問題なの?」と深く考えることなくうけとめがちだ。

しかし、それは単なる一介の倫理啓蒙書なんかではない。教育勅語とは何かを知るにつけ、底知れぬ疑念と恐怖がわきあがる。

明治政府は「大日本帝国憲法」を発表し、日本国の中心が「天皇陛下」であると定めた。そして、あたかも聖書の十戒のようではないか。教育勅語は、「神」である天皇が一人称で語る「皇民」への厳命なのだから。

この考え方を小学校の中でもそだてようとしたのが、天皇皇后の両写真である御真影と、「天皇皇后両陛下」は神であると教える教育勅語

この二つはセットであり、これら「神聖不可侵」なるものを納めるために、講堂や校長室などに奉安所が設けられ、さらには万全を期すために、金庫のような「奉安殿」が随所につくられていった。

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奉安殿 - 沖縄事典

奉安殿(ほうあんでん)は昭和10年ごろに建造された 御真影天皇皇后の写真)と教育勅語を保管した建物である。 戦後、沖縄本島ではここだけが残っている。沖縄市知花6丁目34-23 (美さと児童園 内)

まるで神の言葉が納められた古代ユダヤの「契約の箱」のよう。なにせ火災の時に、子供たちの命よりもこれらの「紙切れ」を守ろうとして亡くなった校長や職員の話がいくつも美談として語られたのだ。

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驚きではないか。

その当時の教師たちは、両腕で子供たちを抱え守るのではなく、命がけで「御真影教育勅語」という紙切れを守ることが大切とされたのだから。

沖縄戦の時、その御真影を守るため、戦火の中教員たちが「御真影奉納隊」を結成し、生徒や家族を後にして、御真影を守るべく沖縄本島全域の御真影を一つの豪に集めるという任務を負ったことは、ご存知だろうか。

生徒や家族の命より、御真影教育勅語が大切だという思想。。。

戦後、沖縄の教育者は、子供たちを少年兵とし戦争に送り出してしまった事、集団自決に至る皇民教育に積極的には加担してしまったことを激しく後悔し反省した。

とんでもない。

両の腕で守るべきは、教育勅語なんかではなく、愛しい愛しい子供たちであるべきだったのだ。

歴史から学ばなければ、歴史は繰り返す。

教育勅語御真影の崇拝による洗脳の過程を忘れてはいけない。

 

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いのちのかかった御真影

[6 内政部教学課(5)]命のかかった御真影 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

首里高女の地下壕で県職員と合流したが、2日ほどいて再び北上する。「銀行の金庫に県の金が入っているが鍵を持ったまま頭取がない。警察の調査で美里にいることが分かったので、すぐに那覇に戻すように―と言われ、知事の名刺を持って美里まで行った。晩出発して大雨の中、着いたのは明け方になっていた」。

 再び那覇に戻る必要はなかった。中山さんが向かったのは羽地大湿帯の「御真影奉護隊」。全島の学校にある御真影が集められ、セメントで頑丈に作られた壕に安置、十数人の教員で奉護隊が編成されていた。

 「当時は御真影に少しでも傷がつくと校長の首が吹っ飛んだ時代。10・10空襲の時に、家族を放って奉安殿の御真影を抱いて避難する校長の姿を見た。各校長とも週1度は、白手袋で奉安殿を開けて管理状態を調べ、奉護日誌を書いて、県に報告した」。1枚の写真が当時は、あまりに大きな意味を持っていた。中山さんが合流して1週間もしないうちに、御真影も安全でなくなった。

 4月11日ごろ、大湿帯付近まで米軍の姿が見られるようになり、奉護隊も山中に移動しなければならなかった。「12人で御真影の入ったリュックをかついだが、肩に食い込むほど思い。山道も歩きにくいし、『御処理申し上げよう』との話になった」と中山さん。

 奉護隊には、あらかじめ知事から「沖縄本島の一角に米軍が上陸する事態になった場合、御真影を御処理申し上げるように」との内命があったという。山の中を移動しなければならなくなり、その話が持ち出された。

 だが、自分の首までかけたほど重要なものだけに簡単には結論は出ない。「御処理申し上げる」には忍びなかった。やっとまとまったのは、「戦争はわれわれが勝つ。その時、御真影がないとなれば恥だ。とにかく両陛下だけでも守ろう」。リュックの中には明治、大正天皇の写真のほか詔勅勅語なども入っていたから、とりあえずそれを処理した。しかし、それでも重かったから御真影の台紙を取り除いて、薄っぺらの写真だけにした。

 丸太で柱を組み、天井、壁に戸板を打ちつけた仮小屋が山中に造られ、御真影の入ったリュックが安置された。毎朝一度は木につるし、皇居に向かってよう拝した。

 中山さんは6月23日ごろ、奉護隊を離れる。食糧が少なくなり、隊に迷惑をかけるとの判断からだ。それまでにも何人かが去っていた。米軍に収容されたのは7月7日。終戦は収容所内で小躍りしながら叫んでいた米兵から知った。「日本は盛り返して逆転勝利する」という気持ちは、米軍の物量を見てすっかりなくなっていた。

 御真影がその後、処理されたことを中山さんが知ったのは戦後になってからだ。