戦前の
ということだったのか。
なんてことだ !
現代の時代に「教育勅語」。
教育勅語、教材で用いること否定せず 政府が答弁書2017年3月31日
政府は31日、戦前・戦中の教育勅語を学校教育で使うことについて、「勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切である」としたうえで、「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」との答弁書を閣議決定した。民進党の初鹿明博衆院議員の質問主意書に答えた。
勅語については、太平洋戦争後の1948年、衆参両院が排除・失効の確認を決議している。
また、稲田朋美防衛相が国会答弁で「親孝行や友達を大切にするとか、そういう(勅語の)核の部分は今も大切なもの」と述べたことの是非について、答弁書は「政治家個人としての見解」とし、政府としての見解を示さなかった。
教育勅語を知らない世代の私たちは、「親兄弟友達を大事にしよう、良いんじゃない?何が問題なの?」と深く考えることなくうけとめがちだ。
しかし、それは単なる一介の倫理啓蒙書なんかではない。戦後にうまれた私たちは「教育勅語」の正体を知ることなしに、安易にこのような甘言を受け入れることは、まさに戦前の教育がそうであったように、同じ歴史を繰り返すことである。
明治政府は「大日本帝国憲法」を発表し、日本国の中心が「天皇陛下」であると定めた。そして、あたかも聖書の十戒のようではないか。教育勅語は、「神」である天皇が一人称で語る「皇民」への厳命なのだから。
この考え方を小学校の中でもそだてようとしたのが、天皇皇后の両写真である御真影と、「天皇皇后両陛下」は神であると教える教育勅語。
つまり、「御真影」は、アイコンであり、その示すところは「教育勅語」にコード化され、そして各教育現場にインストールされた。
この二つはセットであり、これら「神聖不可侵」なるものを納めるために、講堂や校長室などに奉安所が設けられ、さらには万全を期すために、金庫のような「奉安殿」が随所につくられていった。
奉安殿(ほうあんでん)は昭和10年ごろに建造された 御真影(天皇皇后の写真)と教育勅語を保管した建物である。 戦後、沖縄本島ではここだけが残っている。沖縄市知花6丁目34-23 (美さと児童園 内)
まるで神の言葉が納められた古代ユダヤの「契約の箱」のよう。なにせ火災の時に、子供たちの命よりもこれらの「紙切れ」を守ろうとして亡くなった校長や職員の話がいくつも美談として語られたのだ。
驚きではないか。
その当時の教師たちは、両腕で子供たちを抱え守るのではなく、命がけで「御真影と教育勅語」という紙切れを守ることが大切とされたのだから。
そして、その傍に忠魂碑が建てられた。
皇国を守るために、国民の魂は銃弾とされ、それを可視化して祀るものだった。
美里児童園(美里尋常高等小学校跡地)の一角に位置する。忠魂碑は国のために戦争で犠牲となった兵士の魂を供養する意味で全国各地の学校や役場の敷地内建てられた。県内において奉安殿と共に保存されている事例は沖縄市だけであり、平和を考える上でもきわめて貴重な文化財である。
沖縄戦の時、その御真影を守るため、戦火の中教員たちが「御真影奉納隊」を結成し、生徒や家族を後にして、御真影を守るべく沖縄本島全域の御真影を一つの豪に集めるという任務を負ったことは、ご存知だろうか。
生徒や家族の命より、御真影と教育勅語が大切だという思想。。。
戦後、沖縄の教育者は、子供たちを少年兵とし戦争に送り出してしまった事、集団自決に至る皇民教育に積極的には加担してしまったことを激しく後悔し反省した。
とんでもない。
両の腕で守るべきは、教育勅語なんかではなく、愛しい愛しい子供たちであるべきだったのだ。
歴史から学ばなければ、歴史は繰り返す。
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