「集団自決」に括弧がつく理由とは - 復帰後最大の県民大会となった「教科書検定意見撤回を求める県民大会」 からちょうど10年目の沖縄タイムスのシリーズ『教科書のいま』 ① & ②

 

なんてことを・・・

 

チビチリガマが荒らされた。

その事件がひとびとに与えた心の衝撃、或いは傷といったものは深い。

 

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さらには、逮捕された少年たちが

チビチリガマの歴史について「ほとんど知らなかった」と語っていることも、また、波紋を広げている。

 

<チビチリガマ荒らし>「歴史知らなかった」逮捕の少年

毎日新聞

 太平洋戦争末期の沖縄戦で住民83人が集団自決した沖縄県読谷(よみたん)村の自然壕(ごう)「チビチリガマ」が荒らされた事件で、器物損壊容疑で逮捕された少年たちが、チビチリガマの歴史について「ほとんど知らなかった」などと供述していることが県警嘉手納署への取材で分かった。

 看板や千羽鶴などを壊したとして15日に逮捕されたのは、沖縄本島中部に住む16〜19歳の少年4人。チビチリガマでの集団自決の経緯や歴史について、逮捕後「初めて分かった」などと話しているという。これまでの調べに「心霊スポットに行こうと思った」「肝試しだった」などと話していたが、ほとんどが「悪ふざけだった」と供述していることも分かった。

 少年たちは「チビチリガマで亡くなった人や関係者に謝罪の気持ちでいっぱい」などと反省の言葉も口にしているという。

 沖縄県の翁長雄志(おながたけし)知事は19日、県庁で記者団に対して「10代の子供たちが何の意味合いもなくガマを荒らしたことは、沖縄の平和に対する思いが若い人たちに伝わっていないという中での出来事なのかと危惧している。とても残念だ」と語った。【佐藤敬一】

 

しかし、そもそも、青年たちが全くチビチリガマのことを知らなければ、そこに行くわけもない。そのいわれを皆目知らなければ、「肝試し」に行くこともなかっただろう。

 

つまりは、16~19才の青年がチビチリガマのことを知らなかったというわけではない、チビチリガマ歴史の意味重み「知らなかった」のだということ、

 

そのことが、私たちの心を震わせた。

歴史を引き継ぐことの難しさを私たちに投げかけた。 

 

 

 

実は、この9月29日 で、復帰後最大の県民大会となった「教科書検定意見撤回を求める県民大会」から、もうすぐ10年が経つ。

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渡嘉敷島座間味島などで起きた「集団自決(強制集団死)」で日本軍の「強制」記述が消されたことに抗議、11万人以上が参加し、宜野湾海浜公園の会場を埋め尽くした。

 

neverforget1945.hatenablog.com

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県民大会・沖縄のうねり - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 

あれから、

10年が経った。

 

この10年で、

歴史的理解が進むどころか、

ますます歴史修正主義の勢いは増し、

沖縄ヘイトと沖縄デマは高じるばかり。。

  

沖縄タイムスの連載企画、

 

ぜひ本土のみなさんにも読んでもらいたい内容なので、

紹介したいと思う。

 

 

教科書のいま・1

私は「集団自決」の生き残り 慶良間の教訓、伝える決意

 沖縄タイムス

2017年9月25日 13:17

 

 11万人が静かに聞き入る宜野湾海浜公園で、吉川嘉勝さん(78)は意を決して語り始めた。「私は渡嘉敷島北山(にしやま)の『集団自決』の生き残りです」。日本軍に渡された手榴弾(しゅりゅうだん)や持参したカマ、カミソリで家族の命を絶たされた島の人々のこと。被害と加害の記憶に苦しんできたこと。長年口を閉ざしてきたが、日本軍の「罪」を消そうとする動きに怒りがあふれた。2007年9月29日の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」復帰後、最大規模の大会に発展した。

 

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検定撤回を求め、多くの県民が集った大会。当時、吉川さんも壇上に立ち、思いを語った=2007年9月29日、宜野湾海浜公園

 

「『集団自決』現場への住民集結や手榴弾の配布は軍命なしには考えられない」と語る吉川嘉勝さん=那覇市内

「『集団自決』現場への住民集結や手榴弾の配布は軍命なしには考えられない」と語る吉川嘉勝さん=那覇市

 

「集団自決」が起きた渡嘉敷村の現場は、慰霊や平和学習の場となっている。小松克己さんも昨年訪れた=2017年8月

「集団自決」が起きた渡嘉敷村の現場は、慰霊や平和学習の場となっている。小松克己さんも昨年訪れた=2017年8月

  

 県民大会のきっかけとなったのは、文部科学省による06年度の教科書検定渡嘉敷島座間味島などで起きた「集団自決(強制集団死)」で日本軍の「強制」記述が消された。

 

 「軍の責任逃れは許せない」。それまで数度しか証言したことがなかった吉川さんは県民大会の壇上に立った。沖縄戦当時6歳。家族で手榴弾を囲んだが爆発せず「死ぬのはいつでもできる。逃げよう」との母の叫びで命をつないだ。

 

 慶良間諸島では、日本兵は「いざとなれば自決しろ」と多くの住民に伝えていた。軍命による住民の招集、軍管理の榴弾が家庭に配られ「隊長命令があった」と確信している。

   ◇    ◇

 

 吉川さんは、ある防衛隊員の妹から証言を聞いた。軍人経験者だった防衛隊員は「集団自決」の直前、知り合いから「手榴弾の扱いに慣れているだろ。私の旧式と換えてくれ」と頼まれ、新式手榴弾を手渡した。

 その知り合いの家族は爆発で死亡。しかし、交換した旧式手榴弾は不発で防衛隊員の家族は生き残った。 「生存者は相手を犠牲にした傷を負う。被害と加害が複雑に絡み合い、小さな島社会では『語らず』が生きるすべだった。そこが狙われた

   ◇    ◇

 

 県民大会と前後して、住民たちは「あの日」について語り始め、軍命を裏付ける証言が相次いだ。吉川さんも平和ガイドを始め、10年間で350組以上に戦争の実態を伝えてきた。

 

 「教科書検定問題で慶良間の戦争の実態は広く知られるようになった」と感じる一方、近年のインターネットなどによる史実を歪曲(わいきょく)する言説に神経をとがらす。「真実が隠され、追い込まれた先に『集団自決』が起きた。史実を曲げる目的の先には戦争が見える。悲劇を繰り返さないために慶良間の教訓を伝えたい」と力を込める。(社会部・新崎哲史)

   ◇    ◇

 

 2006年度の教科書検定で、高校日本史の沖縄戦「集団自決(強制集団死)」を巡り、日本軍の加害性の記述が大幅に薄められた。11万6千人(主催者発表)が参加した07年9月29日の県民大会を経て、記述はある程度回復したものの、「軍の強制」は認められていない。国の歴史観と、県民の「記憶」とのせめぎ合いが続く「教科書のいま」に焦点を当てる。

 

「ここがあの現場か」 教科書づくり担い手の思い

 昨夏の渡嘉敷島。「集団自決(強制集団死)」を体験した吉川嘉勝さん(78)の案内で、教育関係者の一行が惨劇の地を訪れた。吉川さんの話を特別な思いで聞いていたのが、実教出版の日本史の執筆者・編集者である小松克己さん(65)。「ここがあの現場か」。2007年に表面化した教科書検定問題で、小松さんは渦中にいた。

   ◇    ◇

 

 06年の文部科学省の会議室。同社の編集者や執筆者に渡された検定結果の通知に、小松さんは目を疑った。

 

 「日本軍は、県民を壕から追い出し、(中略)日本軍のくばった手榴弾(しゅりゅうだん)で集団自害と殺しあいをさせ、800人以上の犠牲者を出した」。前年度には別の日本史教科書で検定申請して通っていたこの表現に、「誤解するおそれのある表現である」との検定意見が付けられていた。

 

 「なぜ通らないんですか。何が変わったんですか」。「集団自決」は小松さんの直接の執筆ではなかったが、多くの仲間たちと編集会議で検討を重ねてきた記述。文科省の担当者に、何度も食い下がった。

 

 しかし、担当者は検定審議会の結論を説明するだけ。結局、検定意見に反しない表現を余儀なくされ、「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」と修正した。だれが「集団自決」に追い込んだのか、「主語」はあいまいになった。

 

 07年の9・29県民大会を受け、文科省は教科書会社からの訂正申請があれば応じる姿勢に転じる。しかし、検定意見の大筋は撤回されないままとなり、小松さんたちは苦心の末、ぎりぎりまで軍の責任が読み取れる修正記述を最終的に提出した。

 

 「日本軍は、住民に対して米軍への恐怖心をあおり、(中略)手榴弾を住民にくばるなどした」「このような強制的な状況のもとで(中略)集団自害と殺しあいに追い込まれた」。他社と比べても踏み込んだ表現だったが、「主語」を明示できないことに、悶々(もんもん)とした思いが残った。

   ◇    ◇

 

 それから9年後。現地で聞く吉川さんの証言の重さに、圧倒された。

 小松さんの目に、当時の住民たちの姿が浮かぶ

 雨の中、足場の悪い山中を歩くお年寄りや子どもたち。手榴弾やかみそりで、命を奪い合わねばならなかった夫婦や親子。軍が住民を集めなければ、軍の管理する手榴弾が配られていなければ、あの悲劇が起きたとはとても思えなかった。

 

 「現場を見て、証言を聞いて、『軍の強制』を明記することが必要だと再認識した旅でした」。教科書づくりの担い手として、記述復活への思いを強くしている。(社会部・鈴木実)

 

集団自決は、なぜ「集団自決」なのか

 

教科書のいま・2

「集団自決」修正の標的 政治介入に警鐘

沖縄タイムス+プラス プレミアム

 1991年10月、東京高裁。沖縄国際大教授(当時)の石原昌家さん(76)は、沖縄戦の研究者として法廷に立っていた。「住民が自主的に死んだのではなく、日本軍のために必然的に死に追い込まれました」。これまで聞き取った数千人の証言者と戦没者の思いを胸に、「集団自決(強制集団死)」の実相を語った。

裁判終了後開かれた支援集会であいさつする家永三郎さん(右から2人目)と石原昌家さん(右端)=1991年10月21日、東京霞が関

裁判終了後開かれた支援集会であいさつする家永三郎さん(右から2人目)と石原昌家さん(右端)=1991年10月21日、東京霞が関

 石原さんが出廷したのは、高校日本史教科書の執筆者である家永三郎さんが84年に起こした第3次家永訴訟。家永さんが日本軍による「住民殺害」を教科書に記述したことに対し、当時の文部省は「集団自決」も併記するよう求めた。

 文部省は「集団自決」を、国のために自ら命を絶った「殉国死」として書かせようとしている-。そう国の意図を感じ取った家永さんは反発し、検定の違法性を訴えて提訴した。石原さんも裁判で「日本軍の強制という意味での『集団自決』」と、枕ことばを付けて国の歴史観にあらがった。

   ◇    ◇

 沖縄戦の記述が最初に変更させられたのは、さらに81年度検定にさかのぼる。日本史の教科書で江口圭一さんが執筆した「日本軍による住民殺害」の記述が全面削除された。県民の怒りとともに戦争体験者による新しい証言が相次ぎ、県議会も意見書を可決した。

 これらを受け、文部省は83年度検定からは「住民殺害」の記述を認めるよう軌道修正する。しかし同時に美談としての「集団自決」も書かせようとし、家永訴訟につながっていく。

   ◇    ◇

 石原さんらの証言や裁判を巡る議論は、沖縄戦の実相がより深く理解される契機となった。教科書会社の抵抗もあり、80年代には「軍の強制」の記述が定着する。

 状況が一変したのは、2006年度の教科書検定歴史修正主義の台頭を背景に、「集団自決」を巡る従来の記述に軒並み検定意見がついた。県民の猛反発で「軍の関与」は復活したものの、軍の「強制」や「命令」を明記することは今も認められていない

 80年代に国の思惑で書かされ、そして20数年後に再び国の思惑で修正させられた「集団自決」。翻弄(ほんろう)され続ける「史実」に、石原さんは「国民を軍民一体で戦争へと駆り立てていくために、戦前から教科書を通じて思想教育や洗脳が行われてきた。教科書への政治の介入を許してはいけない」と警鐘を鳴らす。(社会部・湧田ちひろ)

 

 まだシリーズは続きます。