Osprey Fuan Club

~ 沖縄の歴史から現代の政治まで ~

戦争体験者の語る言葉 (珊瑚舎スコーレより)

2016年5月17日

簡潔にまとめられた文ではない。
でも、
体験者の語る言葉には真実の重みがあります。
ですのでそのまま載せてみます。

学校をつくろう!通信

 

(以下、珊瑚舎スコーレさんの記事より)

2007年6月23日   「慰霊の日」特別授業

 沖縄では教科書から「集団自決(強制集団死)」への軍関与が削除された教科書検定問題が大きな問題になっています。 今年の6月23日は座間味村の集団自決の事実を証言者として語り継いでいらっしゃる與儀九英氏から、当時の様子を昼間の生徒、学生、夜間中学の生徒達に話していただきました。前号と今号の2回にわたり、その話を掲載いたします。
              *    *    *     *    *

 それから座間味(ザマミ)という島がありますが、今は集団自決のことで渡嘉敷(トカシキ)とか座間味のことが良くテレビにも出ます。我々の島は小さいですから、小さい所はもうあまり話題にならないんですが、この座間味という所に又、私の母方のおじ一家がおって、そこのことも又心配でどうなったかと。戦争中はですね、あの小さな世界でも、隣りの島のことは絶対情報はもれてこない。どうなったかわからないですよ。隣りの島のことも。それで一週間くらいしてから、4月の初め頃ですね、座間味から村の議会議長までなさった偉い人が、ちょっとアメリカーと一緒にゲルマに渡って来たんです。で、どうなったかと「ワッター、家人衆(ヤーニンジュ)どうなったか」「いや、助役の自決命令でイッター家人衆、みんな死んだよ」と。その中には生まれてまだ3ヶ月もたっていない、いとこの妹がいました。どういう方法で、おばさんが手をかけたかこれはもう知る由もありません。又、知ろうとも思わない。
 今、集団自決の話でテレビも新聞も、皆さん興味中心で聞きますが、私は現象面の話はしたくありません。この命令は誰がしたかという、この指揮命令系統のことをお話をします。
 一番大事なのは責任問題なんですよ。これを沖縄の新聞も学者もあまり研究してない。しかも手榴弾も渡されている。手榴弾というのは、この生徒さんの中には、どんなに大事なものかというのはお分かりでしょう。爆発物取締り罰則という、明治の初めに出来た法律があります。この法律によると民間人が持ってるだけでも、所持しているだけでも厳罰ですよ。そういう大事な爆発物、しかもですね、軍司令官訓示という沖縄の一番偉い将軍が出した訓示があるんです。この中にですね、「一木一草(いちぼくいっそう)たりとも戦力化せよ」と。要するに、日本軍は食べるものも武器もなくなってるから、山に生えている一木一草、木もそれから生えてる草もこれも戦力化しなさいと訓示しているんですよ。そういう中でこの大事な手榴弾までですね、住民に無造作に配るというのは、これ何を意味しているとみなさん思いますか?私から説明するまでもないですよ。これ受け取った島の人達は、天皇陛下からの玉砕命令やさやーと、そうしか思わんでしょ。大事なもの、しかも軍隊がしか手榴弾というものは持ってないですよ。ダイナマイトでもですね、大きな飛行場を作る工事の請負の工事会社くらいでも厳しい管理の中でダイナマイト持っていたかもしらんけど、手榴弾というのは、当時は軍隊でしか持てないです。そういう大事な兵器をですね、民間の人に配給、これは渡嘉敷村史にも書かれています。配給という言葉を使ってるんです。物資を配給するみたいに、どんどん手から手へ島の人達に手渡しているわけです。受け取った人達はこの手榴弾というのは、小銃の弾一発でもなくしたら当時の兵隊は半殺しにされて一週間は営倉(えいそう)と言いましてね、軍隊の中にある小さな刑務所に入れられるんですよ。それぐらい非常に厳しいわけです、弾薬の管理というのは。それぐらい厳しいものをあえて米軍上陸のあのどさくさにですね、無造作に島の人達に、或いは最近ではこの沖縄本島でもだいぶ手榴弾が出回ったという話は出てきてます。ということは沖縄県民を自決させるように、大本営ですでに決まっていたわけですよ。
 昭和19年にですね、7月の7日にサイパンは潰滅的な敗北を喫して日本軍はぺしゃんこに負けました。その時に大本営はですね、自分達の責任は棚にあげて、サイパンにいた在留邦人、要するに、民間の人、民間の人達が、作戦の足手まといになったから日本はスムースに作戦の遂行はできなかったと、要するに戦闘はうまい具合に進まなかったと、民間人が邪魔したと言うんですよ。大本営の言い分ですよ。全くばからしい話です。しかもサイパンはウチナーンチュが多いでしょ。自分達の作戦のまずさは全部棚に上げて、責任は全部この在留邦人、民間の人達になすりつけたわけです。
 民間人がいたから作戦の邪魔になったと。それで、沖縄の島から10万、九州に8万ですか、或いは9万、それから台湾に1万、或いは2万、疎開させなさいと閣議決定です。それで7月から疎開の作業が始まったんですよ。
対馬丸というのをみなさんご存知ですね。学童疎開対馬丸。あれは8月の23日ですか、ちょうど夏休みですよ。ちょうどこのサイパンの敗北を受けて、大本営が自分達の責任は民間の存在になすりつけて、ウチナーンチュは全部九州、或いは台湾に疎開させなさいと、そう言う最中で起こった悲劇です。
 10・10空襲終わってからですね、10・10空襲というのは昭和19年の10月10日に、この沖縄全島の特に那覇ですね、大空襲がありました。初めての空襲。その時に我々も家も、それから教科書も全部焼けて、それで島に帰ったわけです。島に帰ったら、監視哨に動員され軍の一員として働くようになったわけですが。その時にですよ、島は兵隊がいっぱいあふれるくらいいるわけです。この兵隊達、夜になったら民家、我達(ワッター)島の各家々へ訪ねてきて「こんばんは、何か食べ物ありませんか。芋下さい。魚下さい」食べ物ないですよ、兵隊は。ですからサイパンが墜ちた時にですね、サイパンに負けた時に、何で日本はあの時に降伏しなかったか、私はそういうんです。バカなことをしたと。そうであれば沖縄戦はないでしょ。原爆もないでしょ。それから東京空襲もない。各地のいろんな大きな空襲、都市爆撃も。多大な人命を失った。それも避けられよったわけです。
 兵隊達食べる物ないですよ。夜になったらこっそり兵舎を抜け出して、兵舎と言っても茅葺屋(カヤブチヤー)小(グヮー)ですよ。ただですね、沖縄本島の話を聞くと、こっちの兵隊達はかなり乱暴な事をしたみたいですよね。畑を荒らしたり、或いは家畜を強奪して行ったり、やったみたいですが、我達(ワッター)島におった兵隊達は非常に紳士的でした。必ずお金払っていく。
 今でも忘れないですが、上陸一週間前までですね、実はあの軍の命令というのは直接隊長とか兵隊が来てやるんじゃないんですよ。全部役場を使って村長に命令して、村長から役場の職員を通して住民に対して命令するわけです。兵事主任というのがいましたよ。これは召集令状を持ってくる仕事。何でそういうふうなシステムを作っているかというと、無責任ですよ。外から見たら村長とか役場の職員がやってるように見えるでしょ。日本の軍事法制というのは全部役場を使ってやることになってるんです。兵事主任を使って。そこを、特にこの沖縄戦の研究者の方々は見抜いていない。
 普通、取引の会社では、そこに現れている現象を、そこに見た目で確認してそれによって取引が成立します。これを外観主義というんです。外から見た感じで取引が成立する。すると、そこにおった人が、責任をとるシステムになっているわけですね。ところが、軍の法律の制度というのは、全部市町村長、兵事主任を通して召集令状も、それからいろんなものの挑発も、それから防空演習も、全部村長、兵事主任を通して命令は住民に達するようになってるんです。だから外から見たら、村長の命令に見えるわけでしょ、実際中身はそうじゃないんですよ。これをお互いはしっかり見抜く必要があります。これは私は無責任体制と言って、私の本にも強く書いていますけれども。
 今でも今の政治家そうでしょ。秘書がやった、秘書がやった。自分で命令しておきながら、外観は第三者が見たら秘書がやっているように見えますけれども、実際は親分が命令する。これは暴力団の手口ですよ。軍隊の手口というのは、いわゆる暴力団の手口と全く同じです。自分達は後ろに控えておって、法律的には支配操縦という言葉で表現していますけれども。普通お金を借りる場合、お互いの取引の場面でも、借りる人と貸す人、その当事者2人がそこにいて、それで取引が成立しますね、貸借関係というのは。ところが軍のシステムというのは当事者の裏に偉い人がいるんです。ここをしっかりと見抜いていただきませんと、軍の無責任体制の罠にはまってしまいます。ですから集団自決も隊長は命令してないと、今大阪で裁判になってますが、あれは当然なんですよ。法律がそうなってるんです。村長と兵事主任に号令をかけさせるようになってるんですよ。そこをみなさんしっかり理解していただかないと。沖縄戦の研究に一番足りないとこはそれなんです。大本営の偉い人というのは、天皇陛下がそうでしょ。自分はお城におって部下を使って、部下が命令する。慶良間の島々あたりでは、市町村長、兵事主任を使って「天皇陛下万歳、さあ自決せよ」というふうに命令したわけです。
 最近になって渡嘉敷村の役場の職員の方が沖縄タイムスで、非常に重要な証言をしています。昭和19年の9月に、実は慶良間に兵隊がどっと入り込んで来たんです。その時にその役場の職員の方は、当時16歳くらい、小学校を出てすぐ役場に勤めてた。宿直だったんです。すると憲兵が入ってきて、憲兵というのは昔は腕章はめてるからわかるわけですよ。「おい、村長はどこにいるか。村長を呼べ」ともう頭ごなし。そして村長を呼んだら、村長に対して「民家を全部あけなさい。兵隊を入れるから」と。それは村長に言って、各家々をあける作業は村長がやるわけですよ、役場の職員が。兵隊がやりませんよ。そこが非常に巧妙に出来ている。そこをしっかり、みなさんは見抜いて下さい。
 兵隊がいちいち「おい君のうち、一番であけー、おまえの家を二番であけろ。お前のうちは皆立ち退きなさい、隊長が入るから」そういう事は兵隊は一言も言わないです。全部役場に命令するんです。軍の法律がそうなってるんですよ。全部役場の兵事主任に。ですから渡嘉敷は村長が「天皇陛下万歳」と言って自決が始まったと言ってるんです。
 今度、この証言した人が、今愛知県に住んでいますが、非常に大事な証言をしてる。伝令、赤松隊長の伝令だと言って来た島の若い防衛隊員が村長に耳うちしたと言う。周囲は砲弾の音でその声が聞こえなかったと。何を言ってるか、ただ村長はうんうんうん、わかったわかったとうなづいておったそうです。そしてその伝令が離れた直後に、村長が「天皇陛下万歳」と言ったと。何を言ったか、だいたいもう状況でわかるわけですよ。タイムスの14日、15日、16日の朝刊にありますよ。吉川勇助さんという方の非常に貴重な証言。これは是非みなさん読んで下さい。これはもう第1級の資料です。今大阪で、隊長は命令していませんというふうに裁判で争っていますけれども、この証言は軍の無責任体制を根本から暴き出す大きな証言だと私はみているんです。
 これはアメリカでもそうです。アメリカでもですね、あの昆布の土地、具志川のあそこでも、土地の役員に言いつけて、その役員から地主の方々に交渉させている。アメリカは直接には来ないですよ。軍隊というのはどこでも手口は似ている。
 それともう一つ、私はこの本を書くために大和の大学に行って少し図書館を回りました。沖縄の大学は戦後の大学で、戦前の資料はないんですよ、文献は。調べてみて一番びっくりしたのはですね、警察署長が村長を監督するんです、この軍事法制関係は。  召集令状というのが、戦争体験なさった方々、お父さんとか或いは兄さん、召集令状がかかった。この召集令状はですね、役場が決めるんじゃないですよ。これ、連帯区司令部という所で決める。那覇にありましたよ。その連帯区司令部で名前を書いて、誰それって宛名書いてですね、封して何村郡、何々市郡とそれぞれ地域別にわけて全部警察署に持っていくんです。慶良間の場合は那覇署です。那覇署に持っていって置いてる。それで兵事主任那覇署に取りに行くわけです。島に持ち帰って村長、助役、収入役、3名集まってる前で封を切ってですね、中から出して初めて「あー、まーぬ(どこどこの)太郎に来た、まーぬ(どこどこの)次郎に来た」と初めてわかる。
 何で警察署長が村長を、兵事主任を監督するかというと強制力ですよ。インチキは一切許されない。 憲兵特高警察、昔はですね、特高警察、特別高等警察という名前の大変な権力を持ってる警察がいました。治安維持法という法律があって、今の自由とか正義というのは、昔の治安維持法では犯罪になるわけですよ。私のこういう話も、みなさんにやってる話も犯罪になるんです。憲法が改正されたらそう言う時代がくるかもしれないですよ。自由が犯罪になる、正義が犯罪になる、そう言う時代になるんですよ、軍国主義というのは。
 みなさん、小林多喜二という人の名前聞いたことあると思うんです。この人は、弱者保護のため、弱者を守るためにいろんな小説を書きました。ところが、拷問で警察で殺されました。戦後は社会正義の実現のために働いたというんで顕彰も建っているんです。秋田県の出身ですが。この人は親戚のおじさんが、小樽、北海道、そこで商売をしとったんで、今の小樽商大という、昔の小樽商業を出て、そこで作家活動をなさっていたみたいですが。
 この人の生誕地に、今記念碑もできてる。昔は犯罪者ですよ。憲法が改正されると、そう言う時代がくるんですよ。今の自由が犯罪になる。今の正義が犯罪になる。大変恐い世の中になるんです。私はこの間、うちの近くにある高等学校の平和学習の発表会を、教頭先生の許可をもらって聞きに行きました。そこでやってることは、宮良長包の「ゆうなの花」。先ずオープニング、これが始まった。昔は「ゆうなの花」なんて僕ら聞いたことないです。「なんた浜」という曲も聴いたことないですよ。みんな軍歌ばっかり。軍国主義というのは自由が圧殺される。みなさん、自由がなくなるという事はどういうことかわかりますか。まず、髪がメーガントゥ(リーゼント)できませんよ。パーマあてられませんよ。洋服ももんぺですよ、もんぺ。もんぺっていうのわかりますか?自由がなくなるという事は、移動も簡単に出来ない。まず、若者の恋が出来ない。愛がささやかれない。暗黒ですよ。恋愛小説も読めない。恋愛小説持っていると、岩波文庫のそういう小説、外国の小説持ってると、特高に引っ張られていって、警察に連行されて、一晩くさい飯食わされた時代があったんです。昔の大学生はほとんどそういう経験をしてます。で、自由がなくなると言う事はどんな事か。特に若い諸君は、今憲法改正の話が出てるんでじっくり考えて下さい。私はみなさんに二度と銃をとらせたくない。
 私は今日、黒いネクタイ、大変みなさんに失礼ですが黒いネクタイしてる。これは学友はみな、半分は鉄血勤皇隊で死んでいますから。
 魂魄の塔というのがありますね。あれは骨の山なんですよ。あれは当時周辺におった方々がですね、当時は三和村と言っていました。向こうに真和志の、那覇の方々も一時住んでいましたので、畑に頭蓋骨やらこの骨が散らばっていましたから、これを無造作にあの場所にみんな集めたんです。すると骨の山ができたんです。野ざらしにするのはしのびないんで、土地の人達が漆喰を上から塗ったんですよ、骨の山に。あれがそのまま魂魄の塔になっているんです。あれは骨の山ですよ。
 私は戦後、代用教員から始めていろいろ仕事をしましたが、実は今は飛行機が移動の手段ですね。昔は船ですよ。全部鹿児島に行きました。
 1950年頃、研修で鹿児島に渡ったことがある。その時にですよ、沖縄を遠く離れる、あの島影を見ながらね、自分の親達、或いはおじ達、或いは従兄弟(イチクンチャー)達が戦争に引っ張られて行って、無理矢理家族から引き離されて、あの島影を、波之上(ナンミン)がだんだん、だんだん小さくなっていく姿をどんな思いをして見ただろうかと思いました。自由がないから行きたくないと言えないですよ。そういう事言ったらもう殺される、拷問で。小林多喜二はあれは拷問で殺されたんです。とにかく、当時の拷問社会というのは、とても今の文学の力では表現出来ないです。
 五味川純平という、満州で実際にこの戦争を経験した、戦争文学を書いた人がおります。この五味川さんは、実は戦前大学時代に治安維持法でひっかかって警察の留置場で一週間くらい暮らしてた。この人の手記の中にあるんですよ。一緒に房に入ってる、治安維持法で捕まった大学生仲間が一人熱発して、もう手も当てられない大変な高熱。看守に「お願いだから、この人を病院に連れていってちょうだい」と言った。全然聞かない。それで、この五味川さんは、真冬ですから壁に手を当てて、自分の手を冷やして、そしてその高熱でうなされている自分の仲間の額に自分の冷たい手を当てて、だんだん冷ましたというんです。この人が奇跡的に生き返ってですね、戦後、一橋大学の数学の先生になった。戦前はですね、そういうふうな経験をしながら自由を何とか獲得しようと闘った若者が多いんですよ。どうか若い諸君は、今のこの憲法改正の動きに対しては、我々も体をはって阻止しますから、皆さんの自由を守るために、皆さんの恋を守るために、青春を守るために、是非、闘って下さい。これはですね、私の遺言です。
 それともう一つは、新聞にだまされるなっていうんです。我々は新聞にだまされましたから。玉砕とか自決とかね、大東亜戦争とかね。もういろんな言葉を使って国民をだます。集団自決が終わって1,2年がたちますと、だんだん落ち着いてきて世の中のことを見る目がだんだん備わってきました。その時にですね、先ず、生き残った人達はお互いはお上にだまされていたんだなあとつくづく思いました。そのお上というものの中には新聞も入っているんですよ。お上に殺されたと、新聞に殺された、権力に殺された。ですから集団自決、或いはここら辺でも戦争被害はいっぱいあると思うんですが、お上に殺されよった。なんであのサイパンで惨敗した時に、先ほど申し上げたようにですね、戦争は終わらなかったのか。天皇陛下の大きな責任ですよ、これは。
 対馬丸が沈んだ頃、その前に行った、或いは後から九州に行った疎開学童の人達は「ヒーサー(寒さ)、ヤーサー(ひもじさ)、苦しさ」この苦労の中でですね、中には死んだ人もいますよ、あの幼い、9つ、10くらいの幼子達が、異境の地で。そういう中でですよ、沖縄の学童達が疎開先で苦しんでる時にですね、ある貴族は、軽井沢で文学小説を全部読んだと自慢げに話してる。これは、2,3年前、NHKでやっとったですよ。あれを見て、疎開の経験者達はみんな煮えくりかえっていますよ。「何を言うか」と。「私達(ワッター)がヤーサー、クリサー、ヒーサークリサーしてる時に、軽井沢のあの林の中で戦争も知らないで、ウチナーンチュを苦労ばっかりさせてね、ヤーサーウーガリー(ひもじくて苦しい思い)させて。」そういう中で、少年少女小説を読みふけっていたと言うんです。
 ここで一つみなさんに強調したいことは、戦争を計画する人、戦争をおっぱじめる人達は戦争に行かないですよ。みんな後ろで甘い汁を吸っている。
 今から4カ年前ですか、9・11、ニューヨークの貿易センタービルで突っ込んで大きなテロがありましたよね。あれもですね、何か裏があるんじゃないかと。というのはある雑誌にですよ、そこで30年も清掃作業をしているおじさんが貴重な証言してるんです。飛行機がぶち当たる前に爆発があったと言うんです。私はあのテレビを見ながら、これ何かあるなあと、政治的な何かカラクリがあるなあと、私は思ってますが。
 最近アメリカの議会でその掃除の方を呼んでですね、その証言を取っているんですよ。ところがこの人は脅迫にあってですね、その議事録は抹消されてる、消されているそうです。ですから政治の裏というのは、権力の手口というのは、我々が想像できないようないろんなカラクリが働いている。ですから、今度の憲法改正も9条だけの改正じゃない。一番恐いのはですね、みなさんは大丈夫かもしらん。私は今の小学校1年生くらいから徴兵制が出るんじゃないかと思ってる。徴兵制というのは「いや、俺は勉強したいから、大学に残っていたい」と言ったってそんな事は許されませんよ。全部ひっぱられますよ。 軍隊という所はどんな所かわかりますか。今のいじめどころじゃないですよ。一年でも多く軍隊の飯を食った人が絶対権限持ってますからね。ですから沖縄の人達でも昔は大和口(やまとぐち)できないでしょ、それでだいぶいじめられたですよ。ろくに言い訳できないから。
 徴兵制というのはですね、あなた方の自由が全く奪われる、青春が奪われる、恋が奪われる、愛が奪われる。家族が引き裂かれる。これはもう、皆さんの想像には全く出来ない世界のことだと思うんです。我々はそれを味わってきてるから、皆さんにこれだけは味あわせたくない。戦争というのはですね、人間が人間でなくなるとよく言われますが、戦前の軍人勅諭というのがありましたよ。軍人に対する一つの決まり事。この軍人勅諭の中にですね、『汝ら軍人は、身を鴻毛(こうもう)におかれる』「自分の命は、鳥(トゥイ)の羽ぐらいの軽さに覚悟せよ」と。要するに庶民の命は虫けらだったんです。そこをしっかりと認識していただきたい。憲法が改正されると、また再び「国民の命は鴻毛の軽(かろ)き」になる。鳥(トゥイ)の羽、虫けらになりますよ。個人の尊厳というのは全くなくなる。朝起きてから夜寝るまで、国の決めた生活に従って生活するという事が、どんなに息苦しいものか。私どもは集団自決から生き残ってですね、一番最初に「あー自由だなあ」と感じたのは夜ですね。当時は慶良間はランプですから、ランプを煌々(こうこう)と照らす事ができた。戦争前までは、灯火(とうか)管制(かんせい)と言ってランプもつけられない。明かりが外にもれないように、何か黒い幕はってですね、家の窓を全部閉めてましたよ。それで捕虜になって、もうおまえ達帰りなさい、と自分の家に帰って先ず最初に「アー自由というのはこんなに尊いものだなあ」と自由を実感したのは、夜の明かりです。明かりを堂々とつけられた。こっちら辺で言うと電灯がつけられたんです、夜。軍国主義では夜の明かりも簡単につけられませんよ。明かりをつけてちょっとでも漏れたら、「おまえはスパイかー」と来る。必ず隣組から来るんです。そういう時代だったんです。ですから自由というのはですね、失って初めてわかるんです。今あんた方は、自由のど真ん中にどっぷりつかってるから、私の話はそんなに切実には思わないかもしれませんが、自由の有り難さというのは、不自由の究極の中で育った我々がしかわからないですよ。それと、権力の無責任。これをしっかり見抜いて下さい。まあ、つまらん話ばかりしましたけれども、今、集団自決が神話になったり、いろいろ裁判に上がっていますけれども、私は実は先日、岩波の弁護士から電話がありまして、先ほどみなさんにお話した隊長の玉砕訓示の話を書いて裁判所に出しました。あれがなければゲルマの人はみんな集団自決まではいかなかったですよ。「全員玉砕あるのみ」というあの重い言葉ですね、あれがもう頭の中にありますから。しかも、それをまっ先に模範を示したのは、大正の初めに現役で行った在郷軍人の家族なんですよ。そのおじさんが親戚ですが、まっ先に模範を示して、自分の妻からやったんです。で、娘と。私も身内何名か集団自決で失いましたけれども、結局殺し合いですから。お互い身内の中で加害者がいるし、被害者がいるわけです。この加害者というのは、法律的に言うと、天皇の道具なんですよ。これはですね、法律では、犯罪論では間接正犯と言うんです。要するに、犯罪というのは、実行する自分の手でやるんじゃなくて、他人を使って犯罪を実行する場合もあるんですよ。暴力団がそうですよ。それから動物使ってやる場合もありますね。薬を使ってやる場合もある。集団自決というのは、働き手を天皇が道具にしてその乳幼児の首をしめさせた。間接正犯の一つの典型的な事例なんですよ。これは私の本にも書いていますけれども。今日は持ってきていませんが、後で校長先生に寄付しますけれども、どうぞ皆さんでお読みになって、この無責任のカラクリ、それから間接正犯の手口、こういうものをしっかりとお互いに勉強しあってですね、二度と私どもみたいな、だまされるような国民にはならないで下さい。それだけお願いします。どうも失礼しました。

http://www.sangosya.com/tushin/t60.htm

 

オスプレイ不安クラブ - タイムライン | Facebook