市民有権者数の40%もの署名を集めた石垣市陸自配備に関する住民投票、またも石垣市議会が否決 - 何も学ばない自公の市議らが石垣市の未来から住民の意思決定を排除
同じことを繰りかえす非常識な自民と公明の市議たち
住民の一票をもらって選ばれた議員が
選ばれれば、住民の一票を奪う。
自衛隊配備という国策に、
住民の声を差しはさむべきではないと、
陸自配備に賛成か反対か、ではない。
この市議たちがここまで意固地に拒絶しているのは住民投票、それ自体であり、
つまり、白昼堂々と
住民の声など聞かない、と、
一万四千筆もの石垣市民の声を切り捨てた。
全国のニュースにもなっているというのに、民主主義と地方自治と基本的人権について何も学ばない、石垣市議会の10人の市議たちは、こちらの方々だ。
〇 住民投票賛成10名 宮良操 井上美智子 長浜信夫 新垣重雄 内原英聡 花谷史郎 大濱明彦 前津究 砂川利勝 仲間均(3択案は反対)
✖ 住民投票反対10名 我喜屋隆次 石垣亨 友寄永三 箕底用一 砥板芳行 東内原とも子 長山家康 石川勇作 米盛初恵 後上里厚司
【退席】 石垣達也
平良秀之議長の判断で否決
本土の自民党からの電話ばかりを気にする、目先の金と力にマヤーされた自公の市議。結局は、市民より権力が大好きで市議になった皆さんだ。
特にお笑いは公明党。一言たりとも「平和の党」とか口にしないでほしい、金輪際、もう二度と。
2019年2月2日 08:51
石垣市平得大俣への陸上自衛隊配備計画を巡り、市議会(平良秀之議長)は1日の臨時会で、同計画の賛否を問う住民投票条例案を可否同数(退席1)の議長裁決で否決した。採決は当初予定されなかったが、配備予定地の一部で造成工事を控える3月までに、県民投票と同日実施を目指した野党側が採決を求め、与党が審議不十分として否決した。1万4千筆余りの署名で直接請求した市民らの反発は必至だ。
野党、県民投票と同時実施を狙った
野党側は、本会議採決前に総務財政委員会(砥板芳行委員長)で原案が否決されたことを受け、選択肢に「どちらでもない」を加えた3択の修正案も出したが、賛成少数で否決された。
中山義隆市長は議会後、「否決ということで実施できない。市議会の判断を尊重する」と強調。「配備については石垣市として認める形で動いている。市民に情報を伝えながら理解を求めていきたい」と述べた。
採決では公明会派1人が退席し、与党最大会派「自由民主石垣」8人と会派「未来」2人が反対、「自由民主石垣」の1人と野党9人の賛成で同数となった。
否決した平良議長は「条例の中身すら委員会で議論されていない。十分な審議のない条例となれば混乱も心配された」と述べた。
討論は修正案のみで行われ、反対の与党は結論を急ぎ修正案まで出した野党側を批判。野党側は「市民の権利を奪うことは絶対にあり得ない」などと訴えた。
直接請求のための必要署名数は有権者の2%だが、40%の署名が集まった直接請求を否決する石垣市議会と市長。
— Yuzo Takayama (@ryukyurockstyle) February 1, 2019
おまけに国防の為と言いながら、航空、海上ではなく、何故陸上自衛隊なのか。
厳しく追及されるべき。
「石垣・陸自配備住民投票 署名1万4844筆 有権者の4割に」https://t.co/5yFvJjOXez https://t.co/FJGPc2ofpw
原案が賛成10・反対10でしたが、平良秀之議長判断で「石垣市平得大俣への陸上自衛隊配備計画の賛否を問う住民投票」は否決されてしまいました。
— 【公式】石垣市住民投票を求める会 (@ForIshigaki) February 1, 2019
1万4000人以上の市民の皆さんの想いに応えられず、申し訳なさと悔しい気持ちです。
先ほど記者会見を開きました。
またご報告します。
直接参政権を奪い、住民の意思を排除しようとするこれらの市議らのことは、末代までも語り継ぐべし。
民主主義の腐敗は歴史の忘却から始まる。
歴史を忘れたとき、人間は目先の力とカネしか見えなくなる。そうして政治は朽ちる。
もうすでにこの市議たちは、市民ではなく、目の前の力とカネしか見ていない。
刻まれた「わするな石」の意味すら失ってしまったのだ。
「忘忽石(わするないし)」
— 沖縄戦、74年前の今日 (@ospreyfuanclub2) July 28, 2018
軍民共生共死をうたい、農地を接収し島民を徴用し飛行場を建てた。
水を奪い芋を奪い、やがて戦争激化すると、軍は足手まといの島民をマラリアが蔓延する地に強制疎開させた。
まず忘るな
刻まれた先祖のその意思を
もうこの島に生きる大人たちは失ってしまったのか。 pic.twitter.com/tXcGSoOWu9
neverforget1945.hatenablog.com
戦争マラリア
『…八重山の場合、1945年正月早々に3回目の空襲を受けたが3月以降は、それが1日に十数回に及ぶほど激化した。5月に米潜水艦による初の艦砲射撃があり、そのためもあってか、6月に入ると同群島守備軍は、主島の石垣島の住民をそれぞれの居住地に隣接する山岳地帯や他の島々に強制的に避難、疎開させた。
ところが多数の将兵をかかえる部隊の駐屯もわざわいして風土病のマラリアが爆発的に蔓延していたので、住民は薬不足に加えて食糧難から極度の栄養不良に陥り、敵の攻撃を待たずに死亡する者が続出した。皮肉にも沖縄本島で戦闘が終結しつつあった頃、八重山住民は、戦況もまったく知らされないまま逆に受難の道へ踏み出したのであった。
こうして住民の罹病率は、全人口の54パーセントにも達した。ちなみに昭和19年現在の八重山の人口3万4,936名のうち空襲その他による戦没者は、187名だが、マラリアによる死亡者の数は、全人口の1割強の3,647名にも及んだ。その悲惨さは、目を覆わしめるものがあり、戦場のそれと何ら異なるものではなかった。守備軍将兵のばあいも同様で、約8,000名の陣容中、戦没者は約700名だが、その大部分はマラリアが死因であった。(石垣正二『みのかさ部隊戦記』)』(233-235頁)
そのとき、八重山諸島の住民は・・・
『先島のほとんどの島で、守備軍に提供する食糧の供出や飛行場建設のための労務提供(ただ働き)などで、住民は飢餓状態となった。さらに、守備軍の陣地確保や〝住民は戦闘にとって足手まとい〟との理由から、近くの小さな島へ強制移住させられたり、住民もめったに近寄らない山奥への強制避難が命じられた。』(123頁)
《図解「沖縄の戦い」(太平洋戦争研究会=編、森山康平=著/河出書房新社) 123頁より抜粋》
石垣島(いしがきじま)
『太平洋戦争前、石垣島では北部を中心にマラリアが蔓延していました。戦争末期、島の住民は日本軍の命令で、北部に退去させられました。避難した先ではマラリアにかかる人が出始め、2496人がマラリアで命を落としました。
白水地区には、空襲の際に避難していた人たちが使用していた防空壕などの跡が残されています。』(NHK沖縄放送局)
|
|