沖縄の召集された少年兵、護郷隊の真実

軍は言葉を変え、法をねじ伏せ、真実を歪めた。

 

それは軍が言うような「志願」なんかではなかった。何もわからないまま集められた少年たちは、親元や学校から引き離され、武器を渡され、任務を命じられた。

 

14歳から17歳の少年といえば、中学生から高校生の子どもたちだ。いよいよ沖縄戦を見据えた日本軍は、1944年の 9月から随時、沖縄の14歳以上の男子を兵士として徴兵した。

 

なかでも「護郷隊」は、戦闘行為に動員されて約半数の890人が戦死した「鉄血勤皇隊」よりもさらに強制的に招集され、やんばるでゲリラ戦を展開すべく命じられた。800~1000人の少年が防衛召集され、そのうちの162人が戦死したとされる。

 

この護郷隊で「切り込み隊」に選ばれたのは60名の少年。爆弾の箱を背負わされ、敵陣に突っ込むよう命じられた。軍に切り込み隊として「自爆テロ」を強いられた60人の少年、そのひとりが、当時十六歳の瑞慶山さんだった。

 

琉球新報 (2017年1月28日 12:52)
<未来に伝える沖縄戦
16歳で護郷隊へ召集 敵陣斬り込み 死を覚悟 瑞慶山良光さん〈上〉

  

大宜味村上原の瑞慶山良光さん(87)は、本島北部の少年たちで組織された遊撃隊(護郷隊)として戦争を体験しました。護郷隊は、スパイや謀略家を養成する陸軍中野学校出身者の指揮の下にゲリラ部隊として編成されました。

 

米軍の陣地や戦車へ突撃する斬り込み隊としての出陣令状を受け取り「もう生まれてこなかったと思えばいい」と覚悟したことや、米軍が投げた手りゅう弾の破片が頬に刺さり今も傷痕が残っていることなどを大宜味中1年の上地希空さん(13)と平良日菜多さん(13)に語りました。

 1945年3月1日、大宜味青年学校1年。16歳だった。学校ではなく役場の前に集合したら、軍曹が「これから私の指揮に従ってもらう。今から出発する」と話したが、どこに行くか何をするかも聞かされなかった。集まった親たちが「どこに行くんですか」と聞いても「言えない」と。秘密のままに出発した。

 

 恩納村熱田原の国民学校に着いて教官から「今日から第2護郷隊として任務に就き、われわれの軍事教育を受ける」と訓示があってね。球部隊第4遊撃隊として銃や剣、軍服を一式渡された。教育訓練だよ。ほふく前進を肘にマメができるまで、皮がむけて感覚がなくなるまで。「痛くなくなるまで訓練しろ」と言われて、痛くて前に進めない人もいた。そんな人は、木でできた鉄砲でお尻を突かれたり、腹やほっぺたを殴られたりしていた。

 

 〈3月下旬には沖縄本島の空襲が始まり、恩納岳の本陣地に向かうことになりました。その時、指揮官から令状を受け取ります〉

 

 緑の字で書かれた「斬り込み」の出陣令状だった。これをもらった人は3月28日で作業を終え「29、30日は安息日にしなさい。おいしい物を食べなさい」と言われ、特別に牛缶をもらってね。430人いた中で斬り込み隊に選ばれたのは60人。今のテロを思い出したらいいさ。

 

 30センチくらいの高さの木の箱に黄色い粒や導火線を入れて、それを背負って火を付けたら燃えてバンと戦車もひっくり返るわけ。人間も一緒に。死刑宣告さあね。遺髪箱を渡されて、髪の毛を切って、爪を切って、うちから持ってきた私服を整頓して入れた。

< つづく >

 

また、少年たちの結束の強さを警戒した軍は、少年たちを厳しく酷使し、少年同士の制裁を強制し、仲間の「処刑」すら強いられたことも明らかになっている。

 

沖縄戦元隊員証言、護郷隊少年兵が互いに制裁

琉球新報

 沖縄戦大本営がゲリラ戦を目的として、やんばる地域の十代の少年らを集めて組織した「護郷隊」の一部で、上官の命令により少年同士による制裁が行われていた実態があったことが分かった。名護市教育委員会の市史編さん係嘱託員、川満彰さんが複数の関係者から証言を得た。

 

少年らの中には仲間の射殺を命じられ、実行していたケースもあるという。「上官絶対」の軍事論理が少年らを支配していた現実が浮き彫りになった。


 護郷隊は、米軍の沖縄上陸を見据え、1944年秋から召集が始まった。少年らは幼なじみの5、6人のグループに分けられ、在郷軍人が上官として訓練指導に当たったとされる。爆弾を持っての体当たりや背後からの急襲といったゲリラ戦の訓練が昼夜問わず実施される一方、山や谷、民家があってもひたすら直進するといった訓練も課された。その課程で上官への服従や全体責任を押し付ける軍事論理の浸透も図られたとみられる。

 

 川満さんや元隊員の証言によると、少年らは地域の幼なじみだったため、結束が固かったという。しかし、上官が同じグループの別の少年を殴るよう指示し、少年が従ったケースもあった。結果として少年が少年を制裁し合う構図が生まれていったという。

 

 その中にはスパイ嫌疑がかけられた少年の射殺も含まれており、上官の命令により複数の少年が目隠しをされた仲間に対して一斉に銃を発射。犠牲になった少年は集合時間に遅れただけだったという。

 

 軍事教育は徹底していたが、実際に沖縄戦が始まると、少年らの親戚や知人が米軍に投降して近くの収容区に入っていたことから隊を無断で離脱するケースが相次いだ。地域の結び付きの強さを裏付ける一方、少年同士の制裁は終戦後も大きな影響を地域に与えた可能性がある。川満さんは「軍事論理により、地域の人たちが苦しみ続けるということを学んでいくべきなのではないか」と話した。

(中里顕、阪口彩子)

 

<用語>護郷隊
 主にやんばる地域の十代の少年らで組織された第三、第四遊撃隊の秘密名。それぞれ第一護郷隊、第二護郷隊と称した。スパイ養成機関として知られる陸軍中野学校出身の将校が派遣され、主に同地域を中心にゲリラ戦を展開することが任務とされた。地の利を生かす狙いがあったが、全く知らない土地に配置された少年も多く、162人が戦死した。

 

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