元ジュリの手記・従軍慰安婦などについての証言

2016年9月25日

■■■ 元ジュリが手記で従軍慰安婦の事など証言 ■■■

ジュリ(尾類)とは、沖縄における舞子・芸者のような存在。

高い技芸の教養を身に付け、写真にもあるような二十日正月の「ジュリ馬行列」は、3,000人のジュリが美しい衣装と踊りを披露する盛況なものだったといわれる。

しかし、あの戦争でジュリたちの生きた辻 (那覇市) は焼き尽くされ、そして一部のジュリは慰安婦として日本軍に徴用されていった。。。
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一昨日23日、アメリカで画家として活躍していた正子・ロビンズ・サマーズさんが亡くなった。昨年、自らの半生をつづった手記をだしたばかりのことでした。

彼女のように、自身が「ジュリ」であった女性の証言は極めて異例。女性史を研究するにも非常に重要な文献となる貴重なものです。

考えるのです。もし彼女が日本に生きていたなら、こんな手記を書き残せただろうか。

昨日投稿の『うな子』のような、未だに男性目線で女性や子供の性を「消費」し、それが暴力的であるという意識すらない日本、

慰安婦としての証言をことごとく潰し、攻撃し、完全に政治とメディアの現場から排除していく日本に住んでいたなら、

マーズさんはこの手記を書けただろうか。
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声をあげなければ、苦しみも犠牲も存在しないことになっていく。その存在すら消されてしまう。だから声をあげなければならない。

自らの死を前に、この手記を残してくれた正子・ロビンズ・サマーズさん。彼女の勇気に心からの感謝を込めて投稿します。

口承史 (oral history) の文献は読解にも技術が必要。言葉にすることもできない (unspeakable) 経験を言語化することだから。当時の女性たちが置かれていた状況を読み解くには、まだまだ今後の研究がまたれるところ。

彼女の水彩画や油絵は10月25日に那覇市のタイムスホールで開かれる予定です。

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以下は、ロビンズさんがまだご存命であった今年9月2日のタイムスの記事
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/60339
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那覇市の辻(つじ)遊郭の元「ジュリ」だった女性が沖縄戦時、「慰安婦」とされたほかの「ジュリ」とともに、首里にあった旧日本軍の第32軍司令部壕に移動し、兵隊らと共同生活をしたと自身の手記で明らかにしていることが1日までに分かった。関係者によると、「ジュリ」の女性本人が司令部壕内にいたと名乗り出るのは初めて。

当時の状況を明らかにしたのは、米アリゾナ州に住む今帰仁村出身の正子・ロビンズ・サマーズさん(88)。

正子さんは1928年、父親の仕事先の大阪で出生後、家族で今帰仁に帰郷。貧困の中、3~4歳で辻遊郭に売られた。沖縄戦の戦禍を逃れ、終戦後は米兵と結婚。52年に渡米し、画家として活動した後、現在は米国に滞在している。発刊に向け準備中の自身の手記で、戦前の辻に身売りされた過去や沖縄戦時の体験をつづっている。

手記では沖縄戦前の44年、「若い女性は軍隊と行動を一緒にする」との命令が出され、「軍部の命令に従わざるを得なかった」として、先輩の「ジュリ」たちとともに辻から浦添へ移動したと説明。自身は将校の接待や踊りに従事し、性の提供は求められなかったが、順番待ちをする兵隊の性の相手をする女性たちを間近に見て「地獄のような状態であったに違いない」と記している。

その後「私達全員が、万が一の場合に備えての補助看護婦としての勉強をさせられた」「性の提供を強制されることはなくなった」としながら、「首里城の麓にある防空壕へ移動した」と記述。印象を「規模の大きさ、照明がついた長い長い通廊、さらに台所、女性用の大きな部屋、沢山の寝台の備った多くの部屋等の設備には、防空壕の中とはとても思えなかった」と書いている。

壕内では「私達女性は全員で20人余りであった」としつつ、「私たちの部屋は閉鎖され将校用の宿舎に変えられてしまった」と共同生活の様子を述べている。

 

 

 

My Story: A Daughter Recalls the Battle of Okinawa | The Asia-Pacific Journal: Japan Focus

 

www.dee-okinawa.com

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