基地の街の苦悩

2016年6月12日

基地の街の苦悩・・・。

時として気をつけなければならないのは、こうしたニュースを見るにつけ、沖縄の土地勘のない本土の人は、ああ、基地がなくなると困る人がこんなにいるんだ、と思い、基地反対派を静観するしかなくなる。それが「賢明な身振り」だと思い込む。

し・か・し、だ。こうした「苦悩する基地の町」に関するニュースが、やもすると、町が「基地に依存している」「気の毒な」沖縄の印象しか本土の人たちに与えない。時として、そんなふうに、巧妙に、あるいは狡猾に構成してあるところだ。

観光で沖縄にくる本土の人は気づかないだろう。が、どれほど多くの沖縄の「基地の町」が、いま、沖縄らしい美しいまちに変貌しているか、そうした数えきれない事例も、同時に並べてみればいい。

皆さんがよくご存じの那覇国際通り浦添もかつては基地の町。基地の跡地だった、おもろまちやアメリカン・ビレッジ。そして新しくできたイオンモール・ライカム。オシャレな店舗やマンションが建ち並ぶハンビー・タウンもそう。

そんな賑やかすぎる町にならなくとも、読谷の美しい海とふきわたる風を満喫できる豊かな町づくり。ほんとうの沖縄の姿。その地にたち、それを私たちは誇りに思う。

いま、基地による経済効果は、たかだか 5% に過ぎない。基地労働者は1万人を切って9千人しかいない。

強制接収で奪われた土地が返還され、どのように沖縄の土地に根差した美しい町づくりをしてきたかが、まったく述べられないまま、ただただ、基地産業に依存しているから困っていると。

いや、残念ながら、金武の町は米軍基地があっても、今や普段から人通りは少ない。基地と戦争景気と米兵に依存してきた街づくりの限界地を、今、私たちはここに見ることができるのかもしれない。

戦後は本土中にもあったはずだ。GHQ に依存した産業、ドル紙幣をカバンに詰め込んで帰るといわれるほどの伝説的な客商売が。でも、基地の多くが (多く沖縄に移転され) 本土の町から消え去って、それで町は死んでしまったか? 本土の基地がなくなって、それで本土の街の灯が消えたとでも?

否。米軍基地がなくなるということは、普通になる (米軍基地のない、あなたの住む町や田舎のようになる) だけなんですよ。安全で、普通の道理が普通に通じる町に。

基地から開放地になり、不発弾撤去して、投棄された汚染物質も除去して、上下水道を引いて、それから地主たちが協議して新しい街を整備する。十年がかりだ。

そうした沖縄の永年の願いと試みと発展を一つも報じることなく、「基地に依存した気の毒な町」の虚像だけを報道する意図はどこにあるのか、今一度、問いたい。こうした本土の報道にたいする、わじわじー感は、ここにある。 (沖縄では、怒っている時に「わじわじー」と表現します)

本土の人に知ってほしい。沖縄が、その本来の姿をとりもどすため、どれほど長い闘いを歩んできたかを。

普通の道理が、普通に通づる町に。普通に、子供たちが、女性たちが、安全に家路につける町に。Y ナンバーの車に毎日びくびくとおびえながら暮らすことがない町に。

そのために頑張っている人たちの声を届けてください。そして、基地の街にも足を運んでみてください。(キングタコスはおいしいよ ! )

けっして惑わされないでほしい。「基地に依存する気の毒な沖縄」の誤ったステレオタイプを助長する一元的な報道に。

沖縄の声、オスプレイ不安クラブからの願いです。

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