承認撤回 - 翁長知事の後姿と、そして新しい沖縄への道程
翁長知事の遺志を継ぎ、
ついに謝花副知事が承認撤回。
自分が遠くに旅立っていくことになったとしても、残された者たちのために、その次の次のことまでちゃんと考え、準備している、そんな一人の男のうしろ姿を、いま思い出している。
候補者選びが難航した際、人々が求める候補を後押しするための切り札も用意していた、だけではない。
この記事にも涙した。
選挙戦に左右されない、選挙戦を左右させないように、埋め立て承認撤回は「謝花副知事に頼む」と言い残した、その想い。それをうける謝花副知事の覚悟もすごい。
「撤回は君で頼む」 翁長知事、生前に謝花氏に明言 謝花氏「覚悟している」
沖縄県名護市辺野古の新基地建設を巡り、8日に死去した沖縄県の翁長雄志知事が生前、埋め立て承認の撤回について謝花喜一郎副知事に対し「自分でやりたいが、もしものことがあったら君に頼む」と発言していたことが20日分かった。謝花副知事が同日午前、県庁で記者団に語った。
翁長知事の死去を受けて知事の権限は職務代理者の富川氏が引き継いだが、埋め立て承認の撤回の権限は17日付で、従来から辺野古問題を担当する謝花副知事に委任された。
謝花氏は撤回について「土砂投入の動きがあれば富川盛武副知事や与党と相談して毅然と判断する」との考えを示したが、撤回時期は明言しなかった。
撤回に踏みきった場合に政府が工事停止などの損害賠償を請求する構えを見せていることについて「そういうことも含めて私は覚悟している」と述べた。
一方的に沖縄に基地を押しつけておいて、沖縄に損害賠償を請求するなどという、あまりにも下劣な安倍政権の脅しにも屈しない、そんなかっこいい政治家たちが、沖縄には、いる。
本土にもいますか、
こういう骨のある政治家が。
嵐のような9月がやってきた。
新しい沖縄をうみだすための嵐の9月だ。
【解説】翁長氏の遺志継ぐ、新基地阻止の切り札 「行政手続き」強調する沖縄県
2018年9月1日 13:01
沖縄県名護市辺野古の新基地建設阻止を掲げ続けた翁長雄志前知事の遺志を継ぎ、県が辺野古阻止の最大のカードとなる埋め立て承認の撤回を実行した。撤回の権限を委任された謝花喜一郎副知事は31日の会見で「あくまで行政手続きだ」と繰り返し、知事選を考慮した政治判断を否定した。今後想定される国との法廷闘争で、政治色が強い撤回に法的根拠がないなどの批判を避ける狙いがある。(政経部・銘苅一哲)
翁長氏は2015年10月に承認を取り消したが、最高裁判決で敗れた苦い経験がある。撤回は一度しか抜けない「伝家の宝刀」とされるため裁判を強く意識し、沖縄防衛局の工事にいかに法的な問題点があるかを積み上げ、弁護団と協議を重ねる「リーガルチェック」(県幹部)を徹底した。
導き出したのが、軟弱地盤や活断層の存在など、承認後に発覚した新たな問題が「国土利用上適正かつ合理的であること」「災害防止や環境保全に十分配慮していること」など公有水面埋立法の定める承認要件を満たさないとの結論だ。
こうした慎重な議論で進めた撤回が選挙を有利に運ぶための政治的な意図があったとなれば、法的な正当性が揺らぎかねないため、行政手続きを強調した。
県が撤回に踏み切ったことで、国は撤回の効力を一時的に止める執行停止を裁判所に申し立てることや、撤回の取り消し訴訟を提起することが想定される。
ただ、4年前の知事選で辺野古反対の民意を受けて当選した翁長氏の遺志を受けた撤回への対抗措置を国が取れば、有権者の反感を招くなどハレーションも予想され、政府与党が支援する候補者 (註・佐喜真淳候補) が不利な状況になる可能性もある。辺野古問題のボールが渡った政府与党は、撤回と選挙を両にらみする困難な対応を迫られる。
知事選挙と、市町村議選と、承認撤回が、嵐のように、いっきにやってきた。
まだまだある。
翁長さんのレガシー。
全国知事会は14日、日米地位協定の抜本的な見直しを日米両政府に提言した。8日に亡くなった翁長雄志・沖縄県知事の「基地問題は一都道府県の問題ではない」との訴えを受け、2年近くかけて提言にまとめ、7月の全国知事会議で全会一致で初めて採択した。航空法や環境法令など国内法の適用や、事件・事故時の基地への立ち入りなどを日米地位協定に明記するよう要請。米軍の訓練ルート・時期に関する情報を事前提供すること、基地の使用状況などを点検して縮小・返還を促すことも求めている。
そして、沖縄関連予算。
沖縄予算3190億円 内閣府、18年度と同額 7税制2年延長要望 19年度概算要求 - 琉球新報
2018年8月28日 06:30
【東京】内閣府は27日、2019年度の沖縄関係予算の概算要求額を、18年度の概算要求と同額の3190億円とする方針を決めた。18年度の当初予算と比べると180億円増となるが、県や市町村が求めた3600億円には届かなかった。本年度で期限を迎える沖縄関係税制7項目については、いずれも2年間の延長を求めた。
伊波洋一議員も言うように、自民党県連が言う「太いパイプ」など、神話にしか過ぎない。都合のいい本土の飼い犬になどなっても、ならしでしかない。
2018年9月1日 07:08
沖縄の人たちの心を一つにしたかった
撤回と聞いて「あなたが待ち望んでいたことよ。自分の責任でやりたかったと言うでしょうけど、皆さんが遺志を継いで頑張ろうと立ち上がってくれたのよ」と仏前に報告しました。
翁長雄志は命がけでした。他の人にはなぜそこまでするのか、と理解できないかもしれません。政治家として自分に何ができるかを追い求めてきた人です。若い頃は何を考えているのか、何をやりたいのか、分からないこともありましたが、亡くなって初めて思うんです。ずっとつながっている。沖縄のことを思い、沖縄の人たちの心を一つにしたかったんだと。
本人は亡くなる直前に言ったんです。辺野古問題で悩むことが多かったでしょ。「人がどう言うか、分からない。人がどう評価するか、分からない。でも、知っていてほしい。僕は精いっぱいやったんだ。これ以上できない、それでも足りないだろうか。僕の力がそこまでだったんだろうか」と。
私が「ウチナーンチュだったらきっと分かるはずよ」と言ったんですよ。そしたら、翁長は静かに笑ってました。
県民が諦めなければ新基地は止められる
7月27日に撤回を表明し、30日に入院しました。
10日そこそこで亡くなったんですが、肉体的にはとっても大変、きつかったと思うんです。弱いところを見られたくないという思いが強かったですから。副知事や公室長が来たときも病室のいすに座って話をしていました。
若い頃から政治一筋だったので、自分がいま何やるかが分かっていたのかもしれない。撤回の準備に入ったのも、自分の体調が本当に厳しくなってから。どうにか撤回まで持っていきたいと考えていた。
ぎりぎりの状態で進め、結局、自分で撤回することなく亡くなってしまったけど。後は任せるということになり、本当に申し訳ないという気持ちだった。
県民が諦めなければ辺野古の基地は造られないと思う。それは翁長も私も信じていた。県民が辺野古の基地はもうしょうがないということになれば、未来永劫(えいごう)沖縄に基地を置かれたままになる。それでいいのでしょうか。翁長は命をかけて、そこを問い続けた。もう一度踏ん張りたい。私にはそれしかできない。
「ウチナーンチュが一つになって、団結したとき、私たちが考えている以上の力強さがある」と次男が県民大会で言ったでしょ。本当にその通りだと思うんです。一つになって立ち上がる。その強さを翁長は求めていたんだと思うんです。若い頃から。
私が翁長の背中を押した理由
7月27日の記者会見の時、知事室からエレベーターに向かう廊下の窓際に腰を掛けて休んでいたのを記者たちが見て、記者会見で聞いたら、外反母趾(ぼし)と応えていたけど、あれは全然違う。
前日、県庁に行って撤回に向けた最後の打ち合わせをして、公舎に「ただいま」と帰ってきた。玄関にあったいすに座って3分、廊下で3分、リビングで3分、寝室までの廊下でまた3分、5メートルを歩くのに20分かかる状況だったの。
「記者会見で自分の思いを伝えることができるだろうか。記者の質問に答えることができるのだろうか」と私に言ったの。
私は「できるに決まっているじゃないの。何のために頑張ってきたの。あなたがやらないで、誰がやるの」と背中を押しました。
口の中いっぱいに口内炎ができていて、小さな粒の薬を飲むのも少しずつ少しずつ流し込むように。これも20分かかったかな。
翌日起きて、送り出して、記者会見で30分間話し続けることができたと聞いて、私は「神様ありがとう」と何度も繰り返した。
弱い姿を見せたくなかった人ですから、外反母趾と言ったんでしょう。私がそうじゃなかったと言ったことで、翁長は怒っているかもしれません。「なんで本当のことを言うんだよ」って。言葉が聞こえてくるようです。
そんなきつい翁長の背中を私が押したのには理由があるんです。
もう新聞を読めないよ
撤回が現実味を帯びてきた頃、国から「一般の職員にも損害賠償を求める可能性がある」という情報が伝わってきたんです。脅しのようにも聞こえるでしょ。
沖縄に一方的に基地を押し付けておいて沖縄に対して賠償請求が成り立つなら、沖縄戦から引き続き、命を奪われ、基地を押し付けられたこの73年間の被害総額をこちらも請求すべきである !
県庁内は戦々恐々になったようで、翁長は「自分は政治家だから丸裸にされても、撤回をやる覚悟はある。でも一般職員をそんな矢面に立たせるわけがない」って、強く言ったんです。私たち家族もその責任を負う覚悟はありました。でも一般職員にそんなことを言うのはどうなんでしょうか。
皆さんには本質を見てもらいたい。
2期目の出馬についても、本人から直接聞いたわけではないけど、12月の任期を全うできないと感じているんじゃないかなと思うことがあったんです。
例えば、4月に膵臓(すいぞう)に腫瘍が見つかる前から、公舎にあった自分の本の整理を始めたんです。大切にしていた本も捨てて。何をしているのと聞いたら、「これは君たちにはできないことだから、僕がやるんだ」と言うんです。何があっても新聞を読む人でした。胃がんの時も膵炎(すいえん)の時も、病室で私が来るのを待つというより、私が手に持つ新聞を待っているんです。
それが、亡くなる2日前に、新聞を差し出すと「ごめん。もう新聞を読めないよ」って言うんです。新聞の情報を何よりも大切にしていた人ですから、私も「えっ」と思ったんです。この期待に応えてくださいよ。いつまでもいい新聞を作ることがこの期待に応えることですよ。皆さんには頑張ってもらいたいとずっと思っているんです。
最後まで周りに気を遣うお父さんだった
でも翁長が弱いところを見せるのは本当に初めてです。撤回の前日に記者の質問に答えられるかなと言ったとき、そして、亡くなる2日前ですか。出会ってから本当に初めてと言っていいくらい。
昨年の後半頃から、お風呂上がりに体重計に載るたびに体重が減ったようです。胃がんの後で75キロ。これをキープしようと維持してきたんですが、70キロになり、65キロになり。いくら何でも様子がおかしいんじゃないのと病院に行き、体重減も気になるけど、血糖が上がったことも気になると言われ、もしかしたら糖尿病かもと思い、その日のうちに検査したら膵臓に腫瘍が見つかりました。
最後に入院したとき、1回だけ「苦しい」といったことがあるんです。病室で車いすに乗ろうとした時に私が支えていたんだけど、バランスを崩して、二人で転んだの。私に苦労させたと思ったんだろうね。そのとき、私にもたれかかるように「苦しい」と言ったの。1回だけ。
そのとき、死期を覚悟していたのもしれない。もしかしたら恐怖があったのかもしれない。こんなことを私に言ったの。
「この先、子どもたちにあたることがあるかもしれない。自分で自分をコントロールできなくなるかもしれないんだ。そのときは、子どもたちに伝えてほしい。今のお父さんは本当のお父さんじゃないよ。病気で自分をコントロールできなくなっているんだよ」と。
でも、最後までそんな必要はなかった。最後の最後まで子どもたちにあたることはなかった。周りに気を遣うお父さんだった。
でも、でもね。ずっと難しい顔をしていたでしょ。だから最後は見せてほしいと思った。翁長の本当の笑顔を。末っ子の甘えん坊の笑顔を。明るくよく笑う人だったんです。この4年間はほとんど見ることがなかったから。
そして新しい沖縄への道程。
翁長さん、謝花さん、デニーさん。
みんないい顔をしているよ。
#玉城デニー が語るこれからのフェアな日米関係 #沖縄保守 のこれが王道!
— 🍀ちばりよ~デニー✨ (@shimanchutanken) September 1, 2018
「対等な日米関係をつくらないから、地位協定改定も一歩も進めない。全部、従米なんですね。保守の側はそれで独立国家日本だって鼻を高くしているのはおかしな話」
沖縄の意思を反映させる ! pic.twitter.com/xfyAqHKLdM