米国と生きた「アメリカ世」とは - 復帰45年の沖縄に生きて

戦後沖縄は米軍の統治下にあった。

ウチナーンチュは、生きていくため米軍関係の仕事に就いた。


焼け野原になった沖縄に、米軍関係以外の仕事は皆無だった。

 

しかし順応し必死に働いて生きてきた結果、

「本来の沖縄」を見失ってはいないか。

 

『基地はプラスだった』と言い切る、それも真実だろう。

米軍相手の商売は、基地があるから成り立っていた。

 

しかし基地が先にあったのではなく、戦争で米軍基地ができてしまい、

田も畑も失い産業もできなくなったのだから生きる為にしょうがないという、

県民の当たり前を理解していなければ大変誤解を招く言葉だ。

 

そして、やがて米軍基地 (軍人)相手の商売覇権から脱却し、

普通の客相手の商売に転向した人々が、現在の沖縄の主流である事も忘れてはならない。

 

戦前は日本人になろうと必死に大和文化を取り入れ、

戦後アメリカ世ではアメリカ文化の豊かな匂いに惑わされ順応し、

安易に融合する良くも悪くもある我々ウチナーンチュの性質、

チャンプルー文化と呼ばれるやつは、弱い自己の言い訳ではないのかと思うことすらある。

 

沖縄とはなんだと 我々はどうありたいのか、その上で、ではどうしようと自ら決める、

 

自己決定とはきっとそういう事だ。

『俺たちは俺たちなんだ』と、心の声をあげよう。

 

 

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米国と生きた「アメリカ世」とは 復帰45年の沖縄を行く

Yahoo!ニュース

< 以下一部抜粋> 全文はこちらから


米軍統治下の「Aサイン」バーで歌っていたロックバンドは数多い。海兵隊の好みに合わせてパフォーマンスを重視するバンド、「紫」のように本格的なロックを披露するバンドなど、それぞれが腕を競い合った。

そんな中、照屋林賢さん(67)は音楽の方向性を考え、探しあぐねていた。

 

照屋林賢さん(撮影:大城洋平)

 

照屋さんは高校生の時からベースを弾き、卒業後は本格的に音楽を勉強しようと東京に行く。ところが、曲のアレンジに沖縄風のフレーズを使ったところ、メンバーに疎まれ、沖縄に戻った。

「(東京に行く前にAサインバーで)演奏したのはほとんどカントリーです。米兵がめちゃくちゃ喜ぶんですよ。ロックやるよりめちゃ受ける。ばか騒ぎするんですよ。アメリカ人って、カントリーが自分たちの音楽。ロックもそうだけど、それをアメリカ人でもない僕らが演奏する。やっぱ、悔しい部分があって。彼らは俺らの音楽を聞かないしね」

 

1970年ごろのコザ市。中心街には英語のネオンがあふれ、ロックやカントリーが響いた(撮影:吉岡攻)

 

三線や島太鼓をアレンジ

東京から戻った照屋さんは1987年、「りんけんバンド」でデビューした。沖縄の伝統楽器「三線(さんしん)」を自ら弾き、「島太鼓」なども採り入れた。沖縄音楽と現代音楽を融合させ、「沖縄ポップ」という新しいジャンルを作っていく。

「東京から戻った時に『自分がなぜここにいるのか』も含め、自分の目標とか、はっきりした意見を持つようになった。沖縄が抱える問題についても。で、やっぱ、俺は沖縄の音楽をやるんだ、と。沖縄の文化とか工芸とか、沖縄の諸々に関して、当時のアメリカ人って全く興味を示さなかった。だから、とても悔しくて。(自分の音楽には)その影響が一番大きいかもしれないですね。『俺たちは俺たちなんだ』って」

 

沖縄では米国人の姿がどこにでもある。多くは軍関係者だ。北谷町で(撮影:大城洋平)

 

沖縄の人は最も大事なものを忘れている、と照屋さんは考えている。

「沖縄は結局、何かに巻き込まれていく環境になっている。経済も政治も基地も。アメリカ兵の行動を見ればすぐ分かるけど、完全に沖縄は植民地。何度、僕らが同じ説明しても彼らには分からない。良いやつもいるんですよ。だけど、沖縄はしっかりしないと、この先もっと先細りして、沖縄じゃなくなる」