Osprey Fuan Club

~ 沖縄の歴史から現代の政治まで ~

72年前のきょう 1945年5月9日 「島の激変ぶり」

米軍は、大日本帝国や日本軍に「洗脳」された沖縄住民の抵抗をやわらげるべく、

あらゆる方法で壕内にいる人びとに呼びかけをした。

投降を促すビラを投下したり、スピーカーを通した呼びかけをしたり、

また、通訳兵や米軍にいた日系アメリカ人らも活用した。

それでも圧倒的に人手が足りないことから、

捕虜となった日本兵を使った呼びかけを行ったり、

収容所に集められた住民をも使って「デテコイ」と呼びかけさせた。

その任務は危険が伴うことから、給与・代償として食糧などの物資を与えられたそうだ。

沖縄本島北部で避難生活を続け、米軍の呼びかけに応じてそのまま収容所行きとなり、前線から隔離されて生活していた人たちが知る「島」の風景は、米軍上陸前のものだった。

「デテコイ」役に選ばれた人たちは、米軍のトラックで南部へと向かう。

米軍に占領された部落や地域は、「米軍の運用に必要なインフラ整備」が行われており、激変していた。

もちろん、空爆や艦砲射撃による「破壊された島」にも落胆しただろう。

でも、米軍の大型車輌、装甲車、戦車などが必要とする幅の広い道路を走り、

南へと進んだ「デテコイ」役の沖縄住民男性たちは、

「鬼畜米英」の軍隊が作り上げた新たな「島」の風景を見て、

ただただ、驚嘆するしかなかったようだ。

その「島」の風景は、72年経った今もそのまんま。

 

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