72年前のきょう 1945年5月7日 「収容所の青空学校」
米軍は、沖縄本島中北部や周辺離島の制圧に成功した後で、
それらの地域や島々にいた人たちを収容所に集めた。
現在のうるま市石川にも収容所が設置されていた。
当時、石川は美里村に属している小さな農村でしかなかったようだが、
米軍が本島や離島のあちこちで投降した民間人を石川に連れてきたため、
石川の人口は急激に膨れ上がり、戦後、「石川市」となる。
1945年4月上旬に米軍が石川部落付近を掃討していたため、
もともと石川に住んでいた住民は、あらかじめ確保していた避難壕などにいた。
しかし、食糧を取りに戻ると、自宅は米軍の管理下に置かれ、見ず知らずの人たちが居座っていたそうだ。
収容所の人口が増えると、当然ながら子供の人口も増える。
大人は農作業や炊事など、収容所維持のための作業を課せられたが、
子供たちは覚えた片言の英語を使い、出入りする米軍車輌を追いかける。
これでは危険だということで米軍は、石川の収容所にいた教育現場経験者らに学校を開校するよう指示し、72年前の今日、「石川学園」を開校した。
沖縄本島南部一帯では、まだ激しい戦闘が繰り広げられていたころだ。
同じ沖縄本島内でも、すでにこれだけの差があった。