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~ 沖縄の歴史から現代の政治まで ~

72年前のきょう 1945年5月5日 「最後の一人まで」

『濫りに玉砕することは予の本意ではない。予が命を受けて、東京を出発するに当たり、陸軍大臣参謀総長は軽々に玉砕してはならぬと申された。なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の島の南の崖、尺寸の土地の存する限り、戦いを続ける覚悟である。』

これは、72年前の今日、第32軍司令官の牛島満中将が、部下の八原大佐に言ったとされる言葉だ。

この発言の4日前に牛島中将は、

『吾輩も、最後には軍刀を振るって突撃する考えである。』と、述べていた。

1945年 5月1日 『軍刀を振るって突撃』 - オスプレイ不安クラブ 〜沖縄戦シリーズ〜

結局、牛島中将が威勢のいい事を言って「積極的」に武力を使ったために、数日間で約5,000人の日本兵が戦死した。

そして、その「積極的」な姿勢は失敗を招く結果となるが、牛島中将が「最後には軍刀を振るって突撃する」ことはなかった。

ここで注目したいのは、なぜ自身が「軍刀を振るって突撃」しなかったのかという言い訳だ。

『濫りに玉砕することは予の本意ではない。予が命を受けて、東京を出発するに当たり、陸軍大臣参謀総長は軽々に玉砕してはならぬと申された。』

数日間で部下だけでも5,000人を殺したあとで、急に上からの命令を思い出したようだ。

その後に続く言葉には、もう「吾輩」は含まれていない。

だが、『残存する兵力』と『足腰の立つ島民』は、これまで通り犠牲となる。

『最後の一人まで…戦い続ける』と言いながら、

その「最後の一人」は、牛島中将ではなかった。

今の日本国の中でも、威勢のいい言葉を放ちながら武力による「積極的平和主義」なるものを主張する馬鹿な連中がいる。

だが、彼らが窮地に追い込まれる際には、急に憲法9条を思い出し、

それを言い訳にして延命しようとするだろう。

 

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