Osprey Fuan Club

~ 沖縄の歴史から現代の政治まで ~

宮古島の水と自衛隊

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宮古は古い昔から、水に苦しんできました。
平坦で河川がなく、飲み水は、雨水や湧き水や井戸で得るしかなかったからです。

 

島に地下ダムが出来てから、畑にまく水も安定供給されることになり、農業も安心して行えるようになりました。少し塩分のある高度の高い水です。

 

しかし現在でも、水は貴重で限りある資源です。
島民は、水源を汚さない様にムダにしないように、大事に維持管理してきたのです。

 

自衛隊が大勢、島にやって来て基地をつくる。

 

「水は足りるのか?」
アスファルトやコンクリートが増え、雨水の地下への浸透量が減少する」
自衛隊基地で使われる油や洗剤なども分からない。それが集落の近くにできる。水が汚染されないか。」
「観光業、農業に影響しないか?」

 

悩みはつきません。
島に軍隊を呼び込んでいいのか?
住民により、いろんな側面からの話し合いが持たれています。

 

現在の人口でも、雨が少ないと地下ダムの水が枯渇し、断水給水制限を行うほどなのですから。

国の意向にそうだけではダメですよ。
そこで生きていく住民が決めていかなければ、訴えていかなければ。

 

水は貴重なもの。
小さな宮古島に、これ以上地下ダムを増設することは容易ではないのだから。

 

宮古島地下水の歴史

「地上に水源が乏しい宮古島では、古くは洞窟の底にある湧水が利用されていた。湧水は「下って水を汲む」という意味でうりがーと呼ばれており、地表から数メートル、深いもので20メートルまで降りる必要があった。13世紀頃からは井戸も掘削されるようになり、18世紀初期に書かれた『雍正日記』には59か所の井戸が記録されている。女性は毎朝水くみに洞窟を下るのが日課であった。明治中期以降は多くの女性が働きに出るようになったため、子供が水くみを行うことも多くなった。人口増加により平良では良質の水が不足するようになり、周辺から水を調達する商売も行われるようになった。

樹木や屋根から雨水を集め、甕などに蓄えることも行われており、大正から1935年(昭和10年)頃にかけてはレンガやコンクリート製の貯水槽も利用されていた。1924年大正13年)、平良町内で人力揚水機を用いた水の供給が行われるようになり、これが宮古島で最初の上水道とされる。揚水機は直径5メートルの円筒内を人が歩き、その動力によって多数の水桶を連続的に引き上げる構造であり、地下23メートルの水源から水をくみ上げることができた。1939年(昭和14年)には平良町内に近代的な上水道を建設する構想が起こったが、第二次世界大戦のため立ち消えとなった。1943年(昭和18年)、大日本帝国海軍が平良町内にある白明井(すさかがー)の湧水から引いた上水道を敷設し、太平洋戦争終了後はアメリカ軍がこれを改良し利用していた。

1951年3月、白川田水源から袖山浄水場を経て平良市街地に供給する本格的な上水道を建設することが決まり、1952年3月27日に着工した。多くの住民が工事に参加し、1953年5月4日から給水が始まった。一方、平良市街地から離れた城辺町でも1954年から簡易水道の建設が始められ、1977年までに島内のほぼ全域で上水道が利用できるようになった。簡易水道の普及に伴い島内の上水道を統合的に運用する必要性が高まり、1964年5月に米軍政府が宮古島用水管理局を設立したものの住民の反対にあって廃止され、これに代わるものとして翌1965年7月1日に宮古島上水道組合が設立された。

水需要の増加に伴い湧水だけでは供給が不足する恐れが指摘され、1962年頃から地下水の調査が始められており、1965年7月15日には宮古島地下水保護管理条例が制定された。この条例はその後、農業用水源として計画された福里ダムの建設に先立ち1987年(昭和62年)5月23日に更新されている。

1973年には大規模な旱魃があり、これをきっかけとして新たな水源を求める気運が高まり、地下ダム事業と与那覇湾淡水化事業の構想が持ち上がった。このうち与那覇湾淡水化については1981年(昭和56年)9月に反対運動が起き、1983年(昭和58年)に中断が決まった。地下ダム事業は継続され、1998年(平成10年)に福里ダムと砂川ダムが完成している。

1993年(平成5年)は降水量が平年の3分の2にまで落ち込み、白川田水源の湧水量が大幅に減少したため1月21日から4月1日まで制限給水が行われた。」

Wikipediaより

宮古島の上水道 - Wikipedia

 

2017年3月21日(火) 宮古毎日新聞

「詳細な調査が必要」/陸自配備で水や暮らし考える

大勢の市民が参加し専門家の講演に耳を傾けた=19日、JAホール

 宮古島市への陸上自衛隊配備計画で、地下水や市民生活はどうなるのかを考える講演会(実行委主催)が19日、JAホールで行われた。地下水に詳しい専門家などが、宮古島の地形や地層などから目に見えない地下水の特性などを分かりやすく説明。「地下水は一度汚染されると、元に戻るには長い年月がかかる」などと述べ、「計画の前に詳細な調査が必要」との認識を示した。

 防衛省が進めている宮古島市への陸上自衛隊配備計画では、部隊の人員規模は700~800人。家族を含めると1000~1200人程度の人口が新たに参入することになる。

 講演会では、陸自配備で地下水の汚染が懸念されるとしたほか、新たな水源地の確保も必要との考えが示された。

 

www.miyakomainichi.com

餓死とマラリア、あの時8月の宮古は地獄だった。

 

 防衛担当軍の視察で「宮古島は、島全体が平坦で起伏に乏しく、航空基地として最適である」と判断された宮古島には、3カ所の飛行場が建設された。土地の接収は買収の形で半強制的に行われたが、土地代は公債で支払われたり、強制的に貯金させられ、しかもこの公債や貯金は凍結されて地代は空手形であった。飛行場建設には島民の多数の老若男女や児童までも動員され、昼夜を問わない突貫作業が強行された。

 昭和19(1944)年12月までに3万人の陸海軍人が宮古島にひしめいた急激な人口増加に加えて、平坦な地形を持つ農耕地は飛行場用地として接収され、甘藷、野菜などの植え付け面積は大きく削られた。「10・10空襲」のころから海上輸送は困難になり、軍部は残された農地を軍要員自給用農地としてさらに接収した。当初は現金による契約など一見合法的な動きがあったが、自分の所有する畑に、ある日突然"軍用農地"の看板が立てられ、入れなくなるという事態も起きた。いつ飛来するか分からない空襲に備えて、炊事のための焚煙は夜間だけに制限され、燈火管制下の平良町は夜ともなれば文字通り暗黒の町となった。

 戦況が悪化するにつれ、宮古島では食糧不足が深刻化し、慢性の栄養失調は郡民の体力衰弱となり、マラリアの蔓延を来す。物資不足の中で衣類は米穀用麻袋がその材料となる。予告なき襲撃の前に脱衣して水浴することも人々の生活から失われ、空襲におびえるなかでシラミとの闘いも始まる。昼間の作業は死につながるようになり、月明かりなどで植え付けていた甘藷も照明弾投下の夜間空襲が始まるなかで食糧自給の道も閉ざされてくる。備蓄した非常食が底をつき、掘り残されて土中で芽を出した"草のいも"を掘り、処理を誤ると中毒死につながる蘇鉄採りが始まる。生と死が隣り合わせる「もう一つの戦争」に宮古島は巻き込まれていった。

宮古島地区防禦配備図>

総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)

 

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