オスプレイ不安クラブ 〜 沖縄戦シリーズ〜 72年前のきょう

2017年3月23日

今日から、オスプレイ不安クラブ・プリゼンツ・72年前のきょう、沖縄戦シリーズが始まります。

 

72年前のきょう、1945年3月23日、沖縄の全域では早朝から米軍の艦載機による空襲が一日中続いていました。

 

本日、国会では、戦前・戦中に教育現場で用いられていた教育勅語を、現代の民主化された社会にある教育現場で復活させ、それが本来の日本における教育であるべきだと信じる「愛国者」なる人物が証人喚問を受けています。

この数年、世界のあちこちで右傾化が広がり、二つの世界大戦前の社会を彷彿とさせるような現象が多くみられますが、

『賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ』

と表現されるように、今のような右傾化した社会に生きる私たちは、過ちを繰り返さないように、きちんと歴史を学ぶ必要があります。

昨年もお届けした沖縄戦シリーズ。今年は、ブログからシェアする形でお届けしたいと思います。

本日から沖縄戦が公式に終わった9月7日までの間、住民を巻き込んだ地上戦を経験した人びとの証言や記録などを紹介していきます。

「日本を取り巻く安全保障環境は厳しくなりつつある」という政治家や専門家などの声を真に受けて、二言目には「中国が尖閣に上陸する」だとか、「沖縄が中国に取られる」などと言い出すネトウヨは、歴史を知らなさ過ぎます。

沖縄上陸前に米軍は、連日、空爆と艦砲射撃を実施しました。

どこかのカルト宗教団体が作成したバカ動画に描かれているように「いきなり」上陸してきたわけではないのです。

太平洋戦争で米軍が沖縄を攻略するために投じた兵数は、のべ54万人と言われています。

ネトウヨが信じるような、数十人、数百人規模の兵数でビーチに「上陸」し、沖縄を攻略したのではありません。

のべ54万人という人員を運んだ米軍の船舶数は、1300隻とも1500隻とも言われています。

数隻の漁船に乗り込んで、漁民に扮した「軍人」が上陸しても、「沖縄を乗っ取る」ことなど、できないのです。

今日から9月7日までの間、共に歴史を学び、共に未来を考えていきましょう。

 

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1945年 3月23日『米軍による沖縄攻略戦の開始』

慶良間列島

 沖縄全域の空爆が開始される

1945年3月1日以降、途絶えていた米軍の空爆が再び始まった。

1945年3月23日沖縄本島は朝から夕方まで延べ355機の艦載機による空襲を受けました。米軍による沖縄攻略戦の開始でした。』

特集 沖縄戦クロニクル ~その時何が起こったのか~|NHK 戦争証言アーカイブス 

『昭和20年3月23日の夜明け首里城に置かれた第5砲兵司令部清水徹也少尉は首里城頂上に設けられた観測所から、15倍の双眼鏡で西南西方向の海上に照準をあわせた。海上一面に黒い固まりが見えた。さらに照準をあわせると、無数の艦船が海面に所狭しと静かに居住まいを整えていた。…沖合に浮かぶ艦船の群れは、海軍大将R.A.スプルーアンスが率いる中部太平洋部隊所属の8個の機動部隊を中心とするもので、空母から掃海艇まで大小合わせて1300隻であった。』(82頁)
《別冊歴史読本 特別増刊「沖縄 日本軍最期の決戦」(戦記シリーズ/新人物往来社)82頁より》

本島では午前7時15分から終日、米艦載機延べ千数百機による激烈、かつ執拗な大空襲が全島を覆った。宮古八重山など先島方面には46機、大東島に49機、奄美大島にも27機が襲来した。第32軍司令部は午前10時30分、索敵機により本島南東90キロ付近の洋上に空母を含む敵機動部隊を発見、上陸は必至の情勢となった。(115-116頁)

『しつこい攻撃を終日繰り返した敵機は夕方、ようやく姿を消したが、空襲警報は解除されなかった。敵の機動部隊は、沖縄本島に密着して離れなかったからである。』(116頁)

《「特攻に殉す 地方気象台の沖縄戦」(田村洋三/中央公論新社) 115-116頁より》

『1945年3月23日。沖縄本島に対してアメリカ軍の空襲が始まると、住民はパニックに陥り、北部への疎開を見合わせていた住民が、次々に避難を始めた。無秩序に北へ北へと逃れる住民を警察や県関係職員は必死に誘導した。住民の避難によって道路がふさがると軍の活動が妨害されるとして、軍が住民の避難を妨げるといった事態まで生まれた。』(51頁)
NHKスペシャル沖縄戦 全記録」(NHKスペシャル取材班 / 新日本出版社) 51頁より》

『学校周辺に再び空襲があったのは、昭和20年の3月23日でした。私はその日は識名の高射砲陣地での作業日で、救急カバンと弁当を持ち、防空頭巾をかぶって寮の部屋を出ようとすると、空襲警報が鳴り響いたので、ひばりヶ丘めざして一目散に走り、壕の中に隠れました。』(76頁)

《「私のひめゆり戦記」(宮良ルリ/ニライ社) 76頁より》

 

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p47a.jpg

PRELIMINARY BOMBARDMENT of Okinawa and supporting islands began months in advance of the landings. Naha (above) was a prize target because of its port installations and was leveled long before the invasion. Also important were bridges (below) along the island's lines of supply.

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/img/USA-P-Okinawa-p47b.jpg

 HyperWar: US Army in WWII: Okinawa: The Last Battle [Chapter 2]

 

 慶良間(けらま)列島への空爆

阿嘉島では、3月23日の空襲をきっかけに人々は三々五々、島中央の谷あいシジヤマに避難していた。』(16頁)

《「証言 沖縄「集団自決」ー慶良間諸島で何が起きたか」(謝花直美 / 岩波新書) 16頁より》

『3月23日、ついに、ヘルキャット(F6F Hellcat)を中心とする米艦載機が大挙し沖縄諸島を襲った。この日の空襲の特徴は、特に慶良間諸島では、飛来機数がこれまでになく多く、銃爆撃の目標が船舶や日本軍の基地だけではなく、集落にまで及んだことである。』(41頁)

『…3月23日の午後始まった米艦載機の銃爆撃により阿嘉島駐屯第2戦隊の特攻艇多数が被害を受けた。』(42頁)

《「沖縄・阿嘉島の戦闘 沖縄戦で最初に米軍が上陸した島の戦記」(中村仁勇 / 元就出版社) 41、42頁より》

(座間味島での証言)『午前10時頃、遠くの方で飛行機のエンジンの音と機関銃の発射のような音がします。ところが、突然一陣の風が押し寄せてきたように轟音を立てて4機のグラマン艦載機が一列になってウフガーラの山の稜線に沿って急降下して機銃を掃射し、爆音を残して屋嘉比島の上空へ飛び去っていったかと思ったら、また旋回してきては、同じ掃射を繰り返していきます。盛義はその場で、手の親指は耳にあて、あとの4本で目を押さえ、地面に腹をつけないように両肘で支えて伏せました。そのやり方は学校で何度も訓練されていたので、すぐ実行に移せました。その姿勢をすることによって爆風によって目が飛び出したり、鼓膜が破損したり、内臓が破裂したりするのを防ぐことができると教えられていたのです。

4機の飛行機は縦一列になって降下し、攻撃を繰り返してきます。先頭の飛行機が攻撃を終え上昇しかけたとき、2番機が降下してきて機銃を発射します。最後の4機目が上昇する頃には、すでに最初の機が後を追うてくるのです。攻撃が途絶える時間はほんの数秒ぐらいしかありませんでした。』(18-19頁)

『夕方になると米軍機は引き上げ、辺りには元の静けさに戻ったので、壕を出て家路へと急ぎました。屋嘉比島の海上に空襲にやられた船舶が夕日に映えて傾いていました。むなしいような、うら悲しいような情景でした。』(21-22頁)

沖縄戦体験記第21号「連行された逃亡兵」(宮城恒彦/グローバル企画印刷株式会社) 18-19、21-22頁より》

 

女子学徒隊の動員

『空襲による沖縄戦開幕の1945年3月23日、女子学徒隊が看護要員として動員された。根拠となる法令がないまま、実施を施行した。動員対象学年は、沖縄師範学校女子部が全学年(15歳〜19歳)、県立第一高等女学校が3年生(15歳)および4年生(16歳)、他校は4年生で、合計514人を数えた。』(80頁)
《「沖縄 戦跡が語る悲惨」(真鍋禎男/沖縄文化社) 80頁より》

 

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www.nhk.or.jp

 

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年3月23日

 

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