日本国における「南西諸島の防衛」という意味
73年前のきょう、
1944年3月22日、
大本営は第32軍(沖縄守備軍)を創設した。
その1年後の1945年3月23日、今から72年前の明日、米軍は、沖縄上陸前の爆撃を沖縄全域で開始、その数日後に米軍は、慶良間列島へ上陸した。
そこから沖縄戦は本格的に始まったのである。
なぜ、大本営は第32軍(沖縄守備軍)を創設したのか。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史 」(田村洋三/光人社NF文庫)によると、1944年2月17、18日に『絶対国防圏の要の一角であり、連合艦隊の拠点である内南洋のトラック環礁が突如、米機動部隊の砲撃に曝され』、大日本帝国の艦船40余隻が沈没、飛行機270機が損害を受けたことで『大本営の中に、この分では遠からずマリアナ、カロリン諸島が襲われ、奄美、沖縄など南西諸島まで侵攻して来るのでは・・・との懸念が生まれた』(308頁)ことにある。
その後、各方面に配置されていた日本軍の部隊が続々と沖縄入りし、市町村を占拠するようになる。
「証言 沖縄「集団自決」ー慶良間諸島で何が起きたか」(謝花直美 / 岩波新書)によると、『それまでは連隊区司令部と中城湾、西表島の要塞しか軍組織がなかった沖縄で、次々に配備される部隊に、県民は驚きつつも受け入れに追われた。』(5頁) ということだ。
当時の人口が40余万であった沖縄県に投入された日本兵は約10万人。軍隊が配備されたことで、食糧や物資も不足し始める。そして約3ヵ月が過ぎた1944年の7月7日、沖縄県民は政府から疎開を命じられる。同年8月には、疎開船対馬丸が米軍の攻撃を受け沈没、10月には那覇を中心に大規模な空襲を受けた沖縄県は、多くの死傷者を出した。
第32軍が創設され、日本兵が沖縄入りしたあとは、沖縄県民の命は守られるどころか、どんどん失われていったのだ。
第32軍が創設されてから約10ヵ月後(1945年1月20日)、大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」をまとめた。
『大綱では「皇土防衛のための縦深作戦遂行上の前縁は南千島、小笠原諸島、沖縄本島以南の南西諸島、台湾及び上海付近とし之を確保す。右前縁地帯の一部に於いて状況真に止むを得ず敵の上陸を見る場合に於いても極力敵の出血消耗を図り且つ敵航空基盤造成を妨害す」とされ、沖縄での作戦は、本土防衛のために敵の出血消耗を図るという位置付けだった。つまり、本土決戦の準備のために一日でも時間を稼ぐ「持久戦」が求められたのだ。』(「NHKスペシャル 沖縄戦全記録」NHKスペシャル取材班/新日本出版社 48頁)
先の大戦で言われた「南西諸島の防衛」とは、南西諸島に住む住民を敵国の攻撃から守るためではなかった。昭和天皇がいた『皇土』を守るには、まずは南西諸島がその盾となる。すなわち、皇土である「日本本土を防衛する」という意味だ。
第32軍は「沖縄守備軍」とも呼ばれている。しかし、沖縄守備軍の任務は「沖縄に住む日本国民の守備」ではなく、皇土防衛のために、外地の「沖縄で守備を任された軍」であった。
敗戦から70年以上の月日が流れたいま、日本政府は『南西方面の自衛隊の空白地帯は、解消しなければならない』として南西諸島への自衛隊配備や自衛隊による「離島奪還」訓練を積極的に進めている。
先島に自衛隊を配備したがる日本政府の本当の狙いはなんなのか。
現代の「南西諸島の防衛」が意味することとは?
いま、日本国民の一人一人が考え、日本政府に質問しなければ、いつか来た道を辿ることになりかねない。
悲惨な歴史を繰り返してはいけない。
過ちを繰り返さないためにも、歴史を学び、継承し、権力者らの暴走を止めなければならない。
沖縄守備隊・陸軍第32軍総司令部の地下壕
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【お知らせ】オスプレイ不安クラブでは、明日(3月23日)から9月7日までの間、沖縄戦に関する内容の投稿をします。ぜひ、ご一読下さい。