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~ 沖縄の歴史から現代の政治まで ~

「ハクソー・リッジ (Hacksaw Ridge)」 前田高知の戦い アメリカ目線の沖縄戦

2017年2月28日

 

メル・ギブソンが監督として撮影した沖縄戦映画。

昨日行われた第89回アカデミー賞では、アカデミー編集賞を受賞した。

 

予告編 

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メイキング 

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▷あらすじ

第二次大戦に沖縄戦に参加したエドモンド・ドス(Desmond T. Doss)の物語。(彼は2008年に死去)。

ドスはキリスト教でも特に異端と扱われることもあるらしいセブンスデー・アドベンチスト派の敬虔な教徒、

その教えを強く信じているために困難に巻き込まれつつも人殺しする役割を拒否し、

衛生兵として負傷する兵士を助けた実話をベースにした映画のようです。

彼は宗教上の理由から、「銃を持ちたくない、人を殺すのは間違っている」と主張し、

戦場で人を殺さず、約75名の戦友たちを助けた。

歴史上、唯一、人殺しをしなかった兵士としてアメリカ軍の最高位の勲章でもある名誉勲章が授けられた。

最初は田舎のアメリカにある家、軍事基地、法廷、愛、など、平和で文化生活なストーリーになっています。

後半は、沖縄の第2世界大戦で血まみれの兵士や、地獄のような戦争の争いを描いています。

この映画のロケ地は、オーストラリア シドニーがあるニューサウスウェールズ州とアメリカで撮影されました。

http://ozvilogger-takako.com/mel-gibson-hacksaw-ridge-1196 より引用

ozvilogger-takako.com

 

Web上では、戦争描写が非常にリアルでグロテスクだという感想も多くみられた。

ハクソー・リッジとは、前田高知(浦添市)のこと。宜野湾の嘉数高台から浦添にかけての戦闘。

 

実際の前田高地での戦いはどうだったのか。

 

浦添・前田高地周辺での戦い | 琉球放送

2015/05/07 19:21

浦添・前田高地周辺での戦い

“こちらは、2014年12月にある男性が自費出版で出した本です。
本を出すきっかけとなったのが沖縄戦での少年兵としての経験です。 

 

男性はこれまで家族にもほとんど戦争体験を話したことがありませんでしたが、今回、体験をきちんと記録しておきたいと出版に踏み切りました。

その男性が戦ったのがこちら、浦添で繰り広げられたいわゆる「前田高地の戦い」でした。

70年前、首里を目指して南下していたアメリカ軍と日本軍が激しい戦闘を繰り広げた「前田高地の戦い」。

今回は少年兵としてこの戦闘を経験した男性と住民として体験した男性、2人の証言からこの戦いを振り返ります。”


 

沖縄に生まれ住む身とすれば、敵であったアメリカがどのように沖縄を沖縄戦を捉えて表現しているか、気になるところだ。

アメリカ戦争美談で終わっていないか、まあアメリカの映画だからそうなんだろうなと思いながらも。

 

沖縄が舞台の映画はいくつかあるが、

例えば映画「ベストキッド」のように、現実の沖縄とえらくかけ離れた描かれ方をしていないか、

ウチナーとしては見て確認しなくては、私たちが聞き伝えられている沖縄戦と違いはないかと。

 

沖縄戦時の前田高地を舞台にした米映画「ハクソー・リッジ」では、住民の犠牲はえがかれていなかった。日米両軍の激しい戦闘シーンの裏で、スクリーンには映し出されない多くの民間人が戦渦を逃げ惑い、その多くが命を落とした。

浦添市史によると、浦添村(当時)では人口9217人のうち44.6%が死亡。特に前田地域では549人が犠牲となり、戦死率は58.8%にも上った。
 

 沖縄戦時の前田高地を舞台にした米映画「ハクソー・リッジ」。日米両軍の激しい戦闘シーンの裏で、スクリーンには映し出されない多くの民間人もまた、戦渦を逃げ惑い、命を落とした。浦添村(当時)前田で生まれ育ち、当時小学3年生だった富本祐二さん(82)も沖縄戦に巻き込まれた一人だ。(浦添西原担当・伊禮由紀子)

 「辺り一面、真っ黒だった」。今では、木々が生い茂り、時折小鳥のさえずりが聞こえる前田高地の一帯。72年前の同じ場所で、富本さんは緑一つない焼け野原を目にし、鳴りやまない爆撃音におびえていた。

 1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸し、富本さんら家族10人は首里へ逃げた。逃げる途中も砲弾が飛び交い、そのたびに身を隠し、死を覚悟した。

 「どうせ死ぬなら、生まれ島で死のう」という父の呼び掛けで、前田に引き返すことに。道中は首里へ逃げる人たちであふれていた。着物に火がついたまま逃げ惑う女性もいた。

 前田に戻った富本さん一家は、先祖の墓近くの壕に避難した。常に膝を抱えて座らなければならないほど狭かった。乾燥させた芋を食べ、飢えをしのいだ。

 5月下旬ごろ、水くみに外へ出た父が米兵に胸を撃たれた。まるでホースから水が出るように父の胸から血が噴き出し、バケツを持つ手はぷるぷると震えていた。「ほら、水だよ」。瀕死(ひんし)の状態で水を運んだ父は、そう言って亡くなった。

 一家は数時間後に米軍の捕虜になり、壕を出ると焼け野原に無数の死体があった。「私たちはいつ焼かれるのか」とつぶやいた母。誰も、生きて帰れるなんて思っていなかった。

 民間人を巻き込んだ日米両軍の死闘で前田地域に残ったのは、地面を掘っても掘っても出てくる銃弾や砲弾の残骸の山だった。戦後、皮肉にも朝鮮戦争の特需で高く売れたという。

 浦添市史によると、浦添村(当時)では人口9217人のうち44・6%が死亡。特に前田地域では549人が犠牲となり、戦死率は58・8%にも上った。

 富本さんは静かな声でつぶやいた。「多くの民間人が亡くなった。戦争は二度とあってはならない。私のような経験は何があっても子や孫の世代にさせたくない」

 

映画は、もちろん戦争ドキュメンタリーではない。

米兵たちのヒロイックなドラマにするために

その物語の舞台から消されていったものとは何か、

 

・・・それは沖縄の住民たちだった。

 

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