Osprey Fuan Club

~ 沖縄の歴史から現代の政治まで ~

1964年に負けるな!

2017年1月10日

■ 1964年に負けるな! ■

テレビで、「1964年に負けるな!」
と、東京オリンピック当時の映像が流れる。
それを見ていつも感じる違和感。
沖縄はその頃まだ、米軍占領下でした。
内地はその頃から
そんなに平和な世だったのですね。
違和感は確信になり、
薄いベールとなってまとわりつく。
理解共感など
土台出来るはずがないのか?

聖火リレーの火は、

故郷を奪われた父の
怒りの炎だったかもしれないのに。

平和を願う母の
祈りの炎だったかもしれないのに。

 

(以下、リンク先より)

/9 米統治下、リレーの起点 沖縄「聖火に熱狂」夢破れ 憧れた「本土並み」

 

 走った道が舗装されていたか、砂利道だったかは覚えていない。でも、無数に揺れる日の丸の小旗が涙でにじんだ記憶は消えない。


東京五輪聖火リレーで使ったトーチを手に当時の様子を語る安富祖さん=沖縄県金武町で2016年12月、比嘉洋撮影
 東京五輪の聖火は1964年9月7日、ギリシャから沖縄の那覇空港に到着した。22歳だった金武町(きんちょう)の安富祖朝正(あふそちょうせい)さん(74)は翌日、57人目として聖火を手に1・3キロを走った。「誇らしかった。すごく感動した」と回想する。

 日本人の聖火リレーは沖縄から始まった。だが、当時まだ米国統治下で「聖火が日本に到着」とは言えない。米軍は日の丸掲揚を原則禁じていたが、この時は黙認した。沿道を埋め尽くす人々の振る小旗に、祖国復帰の願いが込められていた。

 町の米軍基地では激烈な実弾演習が繰り返され、砲弾の破片や薬きょうが外の田畑や集落に飛び散った。父を沖縄戦で亡くした安富祖さん一家は薬きょうを集めて売り、日銭を稼いでいた。

 五輪後にベトナム戦争が本格化し、大型爆撃機B52が次々に沖縄からベトナムへ飛び立った。安富祖さんは反戦や基地返還を訴える沖縄復帰闘争にのめり込んだが、町は戦争特需に沸く。「人前で闘争の話はするな」。米兵相手のバーを営む兄に、たしなめられた。

 

基地無関心に不信
 沖縄は72年に念願の復帰を果たす。安富祖さんはそれを境に仲間たちの誘いを断り、反基地闘争から身を引いた。長年憧れだった「本土並み」の暮らしを追い求めた。

 5年後、沖縄県保健所職員として千葉県で研修を受けた。初めて降り立つ本土。「未開の地の原住民とバカにされてはならない」と気負ったが、各地から集まった約20人と酒で打ち解けた。

 彼らにとって沖縄とは「南国のリゾート」で、北国出身者は「暖かくていいね」と言った。基地が残り、米兵の事件が多い現実と彼らの想像はかけ離れていた。「沖縄は理解されていない」。かすかに覚えた違和感は、その後強まっていく。

 95年に米兵3人の小学女児暴行事件が起き、久しぶりに自ら抗議集会に参加した。米軍への憤りに加え、弱腰の政府や無関心な本土への不信もあった。

平和と繁栄の陰に
 安富祖さんは保健所を定年退職して10年以上になる昨秋、老人クラブ代表として富山市での大会に参加し、本土の代表の一人に声をかけられた。

 

 「沖縄はいろいろあって大変だね」

 何気ない社交辞令だが胸に突き刺さった。沖縄では半年前、元米海兵隊員の男が女性会社員(20)を暴行、殺害する事件が起きていた。「大変さ」を分かっているのか。基地を抱える沖縄の痛みと引き換えに、本土は平和と繁栄を楽しんできたのでは--。胸中に思いが交錯したが、聞き流した。「議論しても口論になるだけだ」と言う。沖縄で基地反対を叫ぶ人々の背後で、はるかに多くの人々が安富祖さんと同じ無力感を抱いている。

 聖火リレーに日の丸の小旗を振り、復帰を熱望したあの日から半世紀あまり。昨年12月13日に米軍のオスプレイ名護市沿岸に落下し、大破した。19日、米軍は県民に説明もせずに飛行訓練を再開。日本政府も容認した。26日、安富祖さんは記者に「本土との距離が広がっていく」と言った。五輪が再び巡ってくるが「あの時の熱狂はもう感じないだろうなあ」。【比嘉洋】=つづく

http://mainichi.jp/sportsspecial/articles/20170109/ddm/041/050/103000c

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