Osprey Fuan Club

~ 沖縄の歴史から現代の政治まで ~

偶然の一致か? 4月1日の沖縄侵略 ①

2016年10月11日

#4月1日の侵略 其ノ壱

『もう、沖縄独立した方がいいんじゃね?』
なんて声も聞かれる昨今、
沖縄独立っていつの時代のことをイメージしているの?え?復帰前のアメリカ世?それとも琉球の頃?

現実は?
どうやって日本に組み込まれたのでしょうか?
知らないことっていっぱいあります。

で、調べてみました。いくつかの資料の中でわかりやすそうなものから。

島津の琉球侵攻(琉球側から見れば侵略)について。

戦ぬ世は、第二次世界大戦だけではありませんでした。

全てはここから始まっていると言っても過言ではない。

ここでは沖縄本島での戦いを抜粋しました。
出来ればその前のなぜ島津は琉球侵攻をしたのかにも、↓目を通してみてください。
http://kousyou.cc/archives/15591

似ていませんか?
アメリカ軍の沖縄上陸作戦にも、、、。

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『 沖縄島の戦い』

三月二十七日、沖縄島今帰仁沖に登場した島津軍に対し、琉球から講和使節として三司官の一人名護親方と那覇行政の長である江洲親雲上、禅僧菊隠宗意らが送られるが、樺山はこれを拒否、名護親方が人質として捕らえられた。当初の島津軍目的から考えれば、十分に目的が達成されたも同然だったから、講和交渉に入ってもいいタイミングだったが、首里那覇を攻略して講和をより有利に進める意図であった。また、派閥競争を背景としてより多くの軍功が必要であったという事情もある。

今帰仁グスクの琉球軍が退却したとの報を受けて樺山・伊集院久元隊が向かい、島津軍はその道中の村々を放火、今帰仁グスクもこの時炎上し、さらに乱取り(略奪)が行われた。また、今帰仁グスクの守将今帰仁按司朝容は三月二十八日に死亡しており、戦死か自害したものと考えられている。

三月二十九日、那覇港の閉鎖を確認した樺山は軍を二手にわけ一方を海路で那覇港へ、本隊は沖縄中部大湾からの上陸作戦を敢行、陸路で首里城へ向かわせた。

四月一日尚寧王は謝名親方と豊見城親方盛続を司令官に約三〇〇〇の兵で那覇防衛を命じ、那覇港北岸に展開させるとともに、首里城には浦添親方の軍が入った。那覇港には両岸に砲台が築かれて両砲台間に鉄鎖を張って防衛線が敷かれた。午後二時、海路をとった島津艦隊が那覇港に突入するが、両砲台からの集中砲火で全艦撃沈している。「急処に愴忙し、船は各自連携り角いて礁に衝る。沈斃し及び殺さるるもの、勝げて紀す可からず(あわてふためいて狭い場所(港の出口)に殺到し、各船はぶつかってサンゴ礁に衝突した。溺死したり殺されたりしたものは数えきれなかった)」と「歴代宝案」は伝える。

一方、陸路の島津軍本隊は次々と村々を焼き払い、百姓十二、三人を斬殺したという記録も残っているなど、周辺を次々破壊しながら進撃、尚寧王の出身地である浦添グスクを焼き払い、さらに「堂営寺等荒らすまじきこと」という島津軍の軍律に反して、浦添の寺院龍福寺を焼失させた。

四月一日首里城まで迫った島津本隊はまずは慎重に偵察・情報収集を行うと決めたが、ここでも軍律が徹底されず、命令を無視して足軽衆が首里城に攻撃を開始、両軍想定外の展開になった。琉球軍は島津軍が海路で那覇を突いてくると想定して、主力を那覇に展開させていたから、陸路での別働隊の登場に驚き、急ぎ軍を首里城へ移動させる。その間、周囲を切り立った丘陵地帯に囲まれた天然の要害首里城の防衛線は平良川にかかる太平橋になる。太平橋を守備する琉球軍に島津軍は集中砲火を浴びせ、被弾した指揮官城間鎖子雲上盛増は突入してきた島津兵に首を切られた。この首切り行為に驚いた琉球兵が城内に撤退、島津軍が首里市街に雪崩れ込み、万事休すとなった。

四月二日、講和交渉が開始されるが、講和会議のさなかでも統制の取れない島津軍の濫行が続き、首里市街は各地で放火、略奪が相次ぎ、少なからぬ犠牲者とともに貴重な文書や宝物、建築物が多数失われることになった。一方、首里落城の報を受けた北谷グスクの守将佐敷筑登之興道が自害して殉じたほか、散発的に各地で島津への抵抗が行われている。陥落直前に首里城から脱出した浦添親方の子真大和、百千代、真々刈の浦添三兄弟は島津郡の追手と識名原で戦闘となり、島津軍の武将梅北照存坊兼次、小松彦九郎を討ち取ったあと全員戦死を遂げた。識名原の戦いは島津軍の指揮官クラスが戦死した唯一の戦いとなった。また、首里城西端の島添アザナを守っていたのは日本人山崎二休守三という将であったとも伝わる。山崎は戦後囚われて処刑寸前のところを尚寧王が自ら金品で買収し助けだしている。

四月四日、尚寧王は降伏し首里城を下城した。

『戦後処理』

樺山は尚寧王に対し、自ら聘礼使節として日本へ渡航、使節団を編成するように求めるとともに、琉球政府の抗戦派だった謝名親方と浦添親方らを薩摩に連行した。

尚寧王の江戸行き』

島津軍によって強制的に尚寧王とその随行約百余名の使節団は鹿児島から駿府城江戸城へ赴き臣従を表明することになった。八月、駿府城にて徳川家康と、九月、江戸城にて徳川秀忠とそれぞれ謁見し、進物を献上した。家康も秀忠も尚寧王を一国の君主として対等な立場として丁寧に対応したが、やはり、尚寧王にとっては苦痛であったようだ。また、道中王弟具志頭王子が死去、随行員も少なからず病に倒れている。結局、尚寧王は1611年八月まで鹿児島に軟禁されることになる。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/publication/2014/03/post-168.html

 

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