Osprey Fuan Club

~ 沖縄の歴史から現代の政治まで ~

地位協定・フィリピンの例

2016年9月11日

アメリカ軍基地日米地位協定
日本では?他国では?

フィリピンに注目!!

フィリッピン側の団長は「落とし所」として提示したのは、国内に当時あった6カ所の米軍基地・施設のうち、クラーク空軍基地、ジョン・ヘイ保養所(ルソン島・バギオ)など5カ所は返還させ、スービック海軍基地のみの当面の継続使用は認めるという妥協案でした。

しかし、この提案に米国側は烈火の如く怒りました。「これで我々の関係はおしましだ」と怒鳴り、「ワシントンと同盟国は激怒している!」と言って、投資は停止する。フィリッピン人基地労働者は解雇手当ももらえないだろうと脅かしました。

Ⅶ.予備交渉が続く中、1991年6月にフィリッピンは歴史的大災害に襲われます。ルソン島中部のピナトゥボ火山の大噴火でした。クラーク基地のあったアンへレ市、スービック基地のあるオロンガポ市も含め、ルソン島中部は火山灰の砂漠のような光景になりました。

1千万人以上が被災しました。20世紀最大の火山噴火で、成層圏まで達した火山灰によって地球全体の気温を0.5度下げたとされています。
噴火から1カ月もしない7月に訪れたアメリカ代表は、クラーク空軍基地の一方的撤去を伝えました。

同国被災者の救援活動もほとんど行わず、火山灰で使えなくなった基地をあっけなく放棄したのです。ただし、スービック海軍基地の継続使用は要求し続けました。

1991年9月、憲法の規定にのっとり、上院が新基地条約の批准を採決にかけます。 結果は上院議員24人中、賛成11人。反対12人(欠席1)と、過半数にも達しませんでした。この結果1992年11月までに全ての米軍基地はフィリッピンから撤去します。』

『 Ⅵ.クラーク・スービックの両基地跡地は、その後、米軍が残したインフラを活かした「経済特区」となりました。20年を経た現在、両特区とも外資の誘致に成功しており、雇用は数倍増えています。

スービック特区はすでに進出企業で敷地が満杯になり、特区を周辺市町村にまで広げています。クラーク特区は企業誘致だけではなく、国際空港を開港させ、格安航空(LCC)の起点として第二のマニラ空港になろうとしています。

両特区とも年率3パーセント以上の成長を続けています。仕事を失うことを恐れ、基地存続反対した上院議員に「トマトを投げつけたい」と言っていた基地労働者の多くは「あの時は腹が立ったが、今はこの町にとって本当に良かったと思う」と話していました。

人々に感じるのは自信です。家族の将来に前向きな人が多く、汚職や犯罪もマニラに比べると殆ど目立ちません。 』

第2回・日米地位協定入門 rentai-union

 

第一回・日米地位協定入門 

シリーズ⑥ 今、社会の動きは「地位協定」 rentai-union

 

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