疎開船「対馬丸」の悲劇から72年

2016年8月22日

いつの時代も戦争は見境なく子どもたちを殺す。

72年前の今日、
対馬丸が米軍の魚雷攻撃で爆破され暗い海にのみこまれた。
1484人の命を道ずれにして。

日本政府はすぐさま緘口令をひいた。
いのちよりも政府の政策の方を優先させた。
メディアは威勢よく日の丸を報じるばかり。

72年たって、
いま一度、問う。
政府やメディアはあの頃より少しはまともになったといえるのか。

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スピンオフ版【沖縄、72年前の今日】
-- 8月22日『対馬丸が撃沈される』--
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1944年7月7日、サイパン陥落ののちに、いよいよ「沖縄だ」ということで、本土から10万人もの日本兵が沖縄に送られた。

『小さな島に、10万人もの人口が一挙に増えるとどうなのと思う? まず、食べるものや住むところが足りなくなるよね。だから、民家はもちろん、学校の校舎も兵隊さんたちの宿舎にあてられ、子どもたちは民家や木陰で教科書も黒板もなく、床や地面に座って授業を受けたんだって。』①

軍と引き換えだった。日本政府は非戦闘員である老人、女性、子どもたち10万人を本土や台湾へ疎開させよとの命令を通達した。そうして大規模な疎開政策がすすめられたわけだ。

古い英国製の対馬丸はまるで貨物船のようだった。長さは 135メートル。自転車と同じ速度しか出せない。そんな船に国民学校の子どもたち826人を含む民間人およそ1788名と乗員86名をのせて九州を目指した。

その対馬丸が、ちょうど鹿児島県の南西沖の悪石島近くを航行中に、対馬丸は魚雷攻撃を受け、火柱をあげながら海の底に沈んでいった。

乗員乗客合わせて1,484名が死亡。生き残った児童はわずかに59名 (生存率は1割に満たない) だったというから、船倉に押し込められていた子供たちが攻撃から沈没までの11分以内に脱出することがいかに困難であったか、また漂流のなかで次々と命を落としていったことがうかがわれます。

そして生き残った者たちには、さらなる苦しみが待ち受けていた。警察や憲兵対馬丸の撃沈を語るなと命じられて厳しく監視され、疎開先に送られる。疎開先の苦しい生活と偏見。

沖縄戦が終わり、GHQ は早急に本土にいた沖縄人十万人の沖縄への引き上げ計画を行う。本土復興を焦るマッカーサーは、本土の沖縄避難民が「貧困状態で本土復興の妨げになっている」とみなしたわけです。②

焼け野原となり、身内も土地も食料もなく沖縄に送られた子供や大人たちは、外から見えないように幌のついたトラックに乗せられ、まず警察に連れていかれた。

『何にも悪いことをしていないのにね。「対馬丸のことはいっさい、口にしないこと。もしひとことでもしゃべればスパイとしてじゅうで殺す」とおどされもしたんだ。』

当然ですが、人々は対馬丸に乗った身内の運命を、その全体像を徐々に知るようになります。

対馬丸遺族会が発足したのは1950年。占領下の沖縄で、人々に対馬丸の惨劇を広く伝え始めます。

1997年にはようやく海底に沈没した対馬丸の船影を確認しますが、未だに引き上げられていません。引き上げの代替案として、この対馬丸記念館が建てられました。対馬丸撃沈からおよそ60年後、2004年のことでした。

ぜひ那覇対馬丸記念館を訪れてみてくださいませ。③

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対馬丸記念館、紙芝居
NHK 「沖縄 空白の1年 ~“基地の島”はこうして生まれた~」
対馬丸記念館 http://tsushimamaru.or.jp/

 

対馬丸記念館 | 対馬丸記念館は、対馬丸事件の犠牲者の鎮魂と、子供たちに平和と命の尊さを教え、 事件を正しく後世へ伝える為に対馬丸撃沈から60年目に沖縄県那覇市に開館しました

 

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