不屈の人 瀬長亀次郎

2016年8月14日

不屈の人 瀬長亀次郎

瀬長が那覇市長になった途端、法律を変えてまでおさえこんだアメリカ。今の日本も、あの頃のアメリカに似てきたね。

(文、NHKアーカイブズ復帰までの長い道のり より)

昭和20年3月、沖縄戦が行われ、12万人以上が犠牲となった。その時米軍は本土攻略用に基地を各地に建設しようと考えており、生き残った沖縄の人々は収容所へ強制的に集められた。

昭和20年8月15日、本土ではGHQ主導の元日本政府が戦後処理にあたったが、しかし沖縄では米軍による直接統治が続けられ。田井等収容所には、米軍との交渉役を務めた瀬長亀次郎がいた。沖縄ではこの時、避難生活で弱っている上に食糧不足の為、栄養失調やマラリアで亡くなる人もおり、瀬長亀次郎の母も栄養失調で死去した。

瀬長達はアメリカ軍将校に配給を増やす様に訴えたが、アメリカ軍将校は拳銃を振りかざしながら首を縦に振らなかった。問題はそればかりではなく、アメリカ兵の強姦・強姦未遂事件は戦後4年間に、分かっているだけで194件あった。

昭和21年4月、住民による沖縄民政府が発足するが、行政の責任者は米軍の任命制だった。昭和22年には瀬長達は沖縄住民の人権強化を訴えて政治活動を始め、ポツダム宣言を活動の根拠として活動した。

昭和25年6月、朝鮮戦争が勃発。米軍は沖縄の長期保有を決定しており、この戦争を期に沖縄の重要性は上がっていった。その一方、日本独立への動きも生じ、瀬長は本土だけが独立する事への危機感を抱いていた。

そして昭和26年9月、サンフランシスコ平和条約を日本が受け入れ、沖縄をアメリカの施政下に置く事を日本が受け入れた。昭和27年には平和条約が発効され、日本は独立を果たした。昭和20年代後半には沖縄の基地の再編や拡張が始まり、昭和28年にはアメリカ民政府は土地収用令を出し、その後すぐに那覇市・銘苅で強制収容が始まった。

当時アメリカ軍基地だった那覇空港の南側にある那覇市・具志。94歳になる上原太郎さんは具志での強制収容の時にアメリカ軍に立ち向かった住人の1人で、収容地には琉球王朝時代から先祖代々受け継いできた墓があったが、上原さんの曽祖父は国王が外出する際の先導役だったという。その時、立法院議員となっていた瀬長は具志の住民を指示し、励ました。上原さんはそんな瀬長について「沖縄を守る神様」と話した。

瀬長は各地で強制収容を訴える住民を支え続ける中、アメリカ民政府は借地代の一括払いを打ち した。これに対して瀬長達は反対し、損害賠償等、土地を守る四原則をアメリカ軍に訴えた。昭和29年10月、瀬長はアメリカ軍が手配していた人物を匿ったという容疑で逮捕された。瀬長はこれまでの活動をやめれば釈放すると言われたがそれを受け入れず、刑務所は一年半にも及んだ。

昭和30年9月、幼稚園児の女の子が米兵に誘拐・暴行・惨殺される事件が発生したが、瀬長が残した獄中の日記には、この事件に瀬長が大きな憤りを感じた事が記されている。

昭和31年4月、瀬長は刑期を終えて出所。その2ヶ月後には沖縄を現地調査したアメリカ議員団が議会に報告書を提出し、この報告書では瀬長達が掲げていた地代の一括払いは適切であると断じられていた。瀬長達はこの報告書に断固反対し、各地で「土地を守る四原則」の貫徹を訴える住民大会が開かれ、那覇の大会には15万人もの人が集まった。

「沖縄の青春」からの演説引用。

昭和31年12月、瀬長は那覇市長選挙に立候補し、那覇市長に選ばれた。しかしアメリカ軍が大株主であった那覇市の預金を凍結し、土地計画事業への融資を停止した為、那覇市公共事業が行えなくなってしまった。その頃、瀬長を助ける為に納税する市民の列が出来ていた。

「瀬長亀次郎回想録」からの演説引用。

この動きに動揺したアメリカは布令を出し、瀬長追放へと動き出した。市議会で市長の不信任案が可決されやすいように改め、昭和32年11月には瀬長への不信任案が可決。瀬長は市長の座を失う事となり、この動きは本土でも大きく報じられた。そして全国の注目を集める中、瀬長を後任を選ぶ選挙では瀬長と同様に「日本復帰」を訴える候補が選ばれた。

昭和35年4月、沖縄県祖国復帰協議会が結成される。この頃から沖縄の人々への祖国復帰への勢いに拍車がかかり、昭和40年に米軍が北ベトナムへの爆撃を開始した事で、本土でも沖縄への注目は高まっていった。そしてライシャワー駐日大使は沖縄統治の見直しを本国に提案し、佐藤栄作総理も沖縄を訪問した。

茨城・栃木で突風が起きた事が表示される。

そして昭和44年、ニクソン大統領と佐藤栄作総理との首脳会談で、昭和47年の施政権返還が合意された。昭和45年には、瀬長は戦後沖縄初の国会議員の1人に選ばれた。

昭和47年5月15日、ついに沖縄の施政権が日本に返還された。瀬長は平成13年10月5日に死去したが、瀬長が那覇市長時代にもらった手紙は今でも保存されている。アメリカ軍の土地強制収容から先祖の墓地を守った上原太郎さんは、当時は沖縄の古い歌を精神的支えにしていた事を語った。

那覇・与儀公園でトーク。佐野眞一は瀬長亀次郎について「卓越した政治家だったと思う。アメリカ軍から邪魔をされて事業を行う資金が無かった時、市民たちがそれを助けようと納税率が上がった事に歴史的な意味合いを感じる」と話した。

此処で、琉球大学我部政明教授が話に加わる。沖縄県出身の我部政明は自分の経験を語り、アメリカ軍の支配から脱却した時には空が晴れた様に感じた事を話した。また、沖縄の復帰には「基地が無くなる事」等が大きく期待されていたが結局無くならず、沖縄県の人々からは返還協定に不満の声が出ていた事を話した。

ドキュメンタリー「本土復帰」の放送開始。米軍の施政権にあった沖縄県の復帰に関する衆議院の上原康介議員の演説や、佐藤栄作首相の所信表明の映像が流れた。

沖縄県祖国復帰協議会の代表団が東京に到着した際の様子。基地の撤去等、返還協定のやり直しを要求する代表団は、沖縄国会の山場に向けて本土の団体と初めて行動を共にする事になった。その山場である特別委員会は前日から始まっており、上原議員は佐藤首相に核関連施設等の撤去を求めた。

衆議院沖縄返還協定特別委員会は、37時間足らずの審議によって返還協定を採決した。琉球政府屋良朝苗主席は沖縄国会に向けた建議書を向けて上陸した直後だった。

11月24日、衆議院本会議が行われた。社会党議員控室の映像が映った。

翌日、那覇公設市場では返還協定に対する審議について議員たちがインタビューを受け、自分達の考えを述べた。「返還協定のやり直し等で、世論を混乱させてはいけない」と語る議員もいた。

また、返還協定が批准される事によって沖縄が実質的に県民にプラスになるという声も出ていた。インタビューをしていた場所には多くの人が集まってきていた。

返還協定について議論されていた事についてトーク。佐野眞一は「一人ひとりが沖縄の事を大切に思っていて真剣」と話した。

また、米軍基地に核があった事は公然の秘密だった事や、当時の首相らの間で密約がかわされていた事が最近になってわかってきた事について話した。我部教授は「何故住んでいる人たちがそれを決める事が出来ないのかという事に行き着く」と話した。

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