川内原発をとめろ!

2016年4月17日

ほら、もう、多くのニュースの震源地マップから鹿児島が消え、大手のメディアは川内原発のことすら言及しなくなったよ。免震棟すら持っていない原発なのに。


21年前。

阪神淡路大震災の3日後から避難所に入り、ボランティアセンターのオーガナイザーとして3か月近く現地にいた。いろんな現実を見過ぎてしまって、未だに文章にしきれないまま、記憶が薄れようとしているが。

避難所にいる人たちの、父が、妹が、家屋の下に埋まっているままで1か月が過ぎていく。地中で割れた水道管からあふれる泥水を空き缶ですくっては、大きなバケツで避難所に運び、山となったトイレの汚物をなんとか流そうと苦労した。配給されるものがうまく避難所に配られないで腐っていく。必要なものが足りなくて、回りきらなくて、こうした初期の混乱から少しづつ少しづつ。

それでも苦労を何とも思わなかったといったら語弊があるだろうか。避難所の小学校の教室三つが遺体安置所となり、天井が低く思えるくらいにご遺体が積まれ、周りは死にあふれていたから。

「にこくから海が見える。」― 国道2号線ぞいの東灘の町が、広大な瓦礫の地と化して、むこうに海が見える。人々はその光景に戦慄した。昼夜を徹しての救命活動の、そのライトが暗い瓦礫の町を照らし、人々は黙々と下を向いて歩いていた。

とりあえず暖かいものが食べたかった。配られるパンはなぜか菓子パンが多く、そのせいか、20年以上たった今でも、甘い蒸しパンを食べることができない。ヘリの音にも余震かと思ってビクつくような感覚が長く続いた。強がっていても、街を歩いていても、どの建物がどんなふうに倒れるのかがまざまざと目に浮かんで怖かった。

そして月日がたち・・・数年前に久しぶりに車で国道2号線を通った。いまや、ここから海が見えたなんて、誰も信じられないだろう。美しいビルや家屋が立ち並んでいて、まったく当時のことが思いだせない。区役所と避難所を何度も往復したはずなのに、その道すら思いだせない。夜景となるとさらに美しく、車を運転しながら、涙で街の姿がぼやけてしまうくらいだった。

そして・・・。

昨年、南相馬のあるお寺を訪れて、被災者の人たちとお酒を飲み交わした。ちょうど原発から20k圏内の線の外側にある町だ。

畑で採れたもの、山の幸、海の幸。わかってはいても、それを食べて暮らさなければならない。東電に電話する、そして東電は相談ダイアルを開設しているので、驚くことなかれ、何時間でも ( ! ) 対応して、話をきいてくれる。

いや、そんなことをお願いしているのではない。心の相談ではない。物理的な生活の話なのだ。被曝を余儀なくされているという話で、それで、家族の離散生活やら経済活動停止を余儀なくされているという問題なのだ。何度でも何度でも電話しても同じこと。やがて電話するのもあきらめてしまう。そこまで計算づくでのガス抜き電話相談だ。

地震はおこる。日本は地震でできたような島だから。

そして、自然災害の傷跡がどんなに深くても、人々は、自分の足で立ち上がり、歩きはじめ、家をつくり、町をつくり、子どもを育てる。


でも、この二つの被災地の情況の違いは何か。人々の苦しみの違いは何か。私たちは考えなければならない。

原発だけは違う。どんなに家が立派に残ろうと、どんなに生活を立て直そうとしても、もう何もかもが放射能に汚染されてしまい、復興という言葉に闇と絶望を残す。

5年たっても私たちは被害を受け続けている。放射能の被害に生活を切り裂かれ、その元凶となった東電という企業は、責任をとることもしない。国民の税金負担にすべてを丸投げしてしまう。そして今も壊れた原発を収束できる予測も立たない。

変な話だ。一企業のために、ここまで国民が切り裂かれ、また責任を担わされる。

だからこそ、いますぐ止めてほしい。どんな小さなリスクでも原発においては見過ごすことはできない。

九電は責任をとらない。

安倍政権も、災害対策すらを日米同盟強化や選挙の道具に利用していくだろう。

熊本県知事の姿はテレビにでてこない。
震度を表すマップにはすぐ南の鹿児島がカットされている。
今や川内原発への言及すら、主要メディアから消え去ってしまった。

理由はわかる。「被災者の不安」を掻きたてる原発の報道は避けるように、ということなのか。

いや、違う。最大の不安要因である原発を即時停止する。このことが、今、一番求められている被災者の不安除去だということ。

何度も何度も言わなければならない。

最大の危機要因である川内原発をいますぐ停止してください。

九州電力は「どんなに揺れても原発を止めないという犯罪歴がある」 : 小坂正則の個人ブログ

 

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